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20年ぶりの歯医者記録 〜3本目〜


 診察室に向かうと、忌忌しいものが目に入る。
 リクライニングソファ。そしてその傍らに光る、トレーに乗った恐ろしげな器具…。
 今からこのリクライニングソファに座って、あの狂気じみた器具で口の中をギッタンギッタンにされるのだ。
全くリクライニングでない!  嫌だ! 帰りたい!
 そんな風に思っても、なかなかそれは叶わない。なぜなら目の前に、主治医がおり、逃げ道は助手によって塞がれてしまっているからである。
 主治医をぶん殴り、驚いている助手の間をすり抜ける、という活路もある。



とんでもなく物騒なことを考える私


 だがしかし、私はもうアラウンドサーティー。小学生ではない。そんなことをしたらば豚箱にぶち込まれてしまう。
 そんな私の気持ちも知らず、主治医は朗らかに口を開いた。
「20年ぶりということで…リラックスしていきましょう」
あれ? なんだか優しいぞ。
  20年前に訪れた主治医は、ぶっきらぼうで、鬼のような顔をして、マスクからその長い牙が飛び出し、目から光線を出していたというのに。
  月日が経つうちに、歯医者とは恐ろしいものではなくなったのだろうか。
  いささか面食らいながらレントゲンを撮る。レントゲンは肺や胸のものであっても緊張する。
  どうにも魂を抜き取られるのではないか、という不安が過ってしまう。    
  そんな不安を他所に、一体何時撮られたのかすら分からないうちに、無事魂を抜き取られることなく撮影は終わった。
  レントゲンに写った私の親知らずは、4本全て変な方向に向かって生えていた。
  上の2本は奥歯を圧迫するかのように斜めに生え、下の親知らずに至っては、完全に横を向いている。とんだ体たらくな野郎共である。
 レントゲンと併せ、口内の状態を見た主治医は私に居直り
「左上の親知らずがちょびっと顔を出し、その隙間にカスが溜まって隣接する奥歯が虫歯になってしまっています」
 などと言った。人道に外れただけでなく、人様に迷惑をかけるなんて、とんだ不良野郎だ。そんな親知らず、とっとと見限りたい。
 主治医は続ける。
「まずは奥歯の虫歯を治療します。それが完了してからでないと親知らずは抜けません」
 なんてことだ。簡単にすっぽんと抜いたらそれで終りかと思っていた。
  この様子だと、通院ということになるかもしれない。
ふざけるな。こちとらできるだけ歯医者と関わらないように必死で歯磨きをしてきたんだ。通院など、御免こうむる!
「奥歯の治療を3回。親知らずの抜歯で1回。それから抜いた歯が完治した1ヶ月後くらいに奥歯にかぶせものをする流れとなります」
絶望だ。
  そんな長い期間、歯医者と共に生活をしなくてはならないなんて…。
 それもこれも、親知らずのバカ野郎の所為だ。
  あいつがバカみたいに暴れ狂うから、変な風に生えるから、他の歯にも迷惑がかかり、しかも歯並びすら悪くなってしまったんだ!
  とんだ厄介者だ。本当に、どうしてこうなってしまったんだろう。
 私が生まれてきてしまった親知らずの存在に涙を流している間、主治医は
「すぐにでも治療をしたいのですが…今日しちゃいます?」
 などと茶目っ気たっぷり聞いてきた。
「今日は歯石取りだけで終わりにして、別日に治療もできますが…」
  などと、甘い言葉を囁く。20年ぶりの歯医者通院である私に気を回してくれたようだ。
  だが、今はもう、とにかく早く憎き親知らずと縁を切りたい。
 全く持って遺憾で仕方がない。が、生えてきてしまったものは仕方がないこと。
「すぐに治療をはじめてください」
 私はうなだれながらそう告げた。
  私の一声を合図に、主治医、助手が素早くフォーメーションを替え、治療の体制に入った。
  これはもう、逃げられない。
  主治医を殴っても、助手の間をすり抜けても、悪の根源親知らずがそこにいる限り、私は歯医者から開放されないのだ。
  久方ぶりに聞こえる、器具のギュイイイィィィイインという音が、直ぐそこで聞こえた。
 親知らずよ。今に見ていろ。奥歯が完治し、お前を抜いた暁には、罵詈雑言を吐いてやるからな。
  そんな風に、憎しむ相手を見つけないことには、どうにも乗り切れる気がしなかった。

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