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20年ぶりの歯医者記録 〜2本目〜


 行きたくない足をなんとか引きずって、私は歯医者を訪れた。
 清潔感漂う病院だ。そう。歯医者というものは、何処だってそうだ。
 白を基調としており、クリーン感全開。どことなく消毒薬の香りが漂う佇まいをしている。実に、嫌な感じ。スカした感じだ。
 受付の方に名前を告げると、問診表を渡された。私はおどおどしながらそれを受け取って、名前や痛みを感じる箇所を明記した。
問診表の中に「最後に歯医者に通院したのはいつですか?」などと言う質問があった。
この質問は、実に私を悩ませた。
 嘘偽り無く記すなら「20年前」と書かなければならない。
 しかしそんなことを書いたら
「20年間も歯医者に来ないだなんて。こりゃ相当な歯医者嫌いだぞ。あはは。あはは」


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私を笑いものにするイメージ図


 などと私の問診表を片手に、助手と大笑いするに違いない。
「頑張って足掻いていたみたいですけど、プププ。残念でしたね。プププ」
 などと肩を揺らしながら失笑するのだ。
 なんて奴らだ。これだから歯医者は嫌いなんだ。
 しかし「5年」などと嘘を連ねたところで
「5年前は何処を治療したのですか?」と問われてしまうと
「えっと、その…。前歯? とか、うーん。犬歯? 辺りだった…ような?」
 などもごもご誤魔化すしかない。そうすると
「あ。あなた今嘘ついているでしょう。大した知識もないくせに、嘘をつくだなんて本当に愚か者ですね。そんな人は麻酔無しで施術しましょうね」
 などと恐ろしいことを言われるかも知れない。
 嫌だ。怖い。麻酔が無い治療だなんて、ただの拷問だ。
 私は震え上がりながら、正直に「20年前」と記載した。
 正直者の私は、清く正しく記入を済ませ、受付の方に問診表を渡した。
 どうしてこんなに清らかで、ちっとも汚れていない私が虫歯にならなくてはならないのだ。
 しかし、潔白さを説く奴ほど心根は真っ黒である。
 素晴らしきマニフェストを掲げて、正真正銘正義の化身、みたいな顔をしているのに、当選した途端全くそれを実行せず、満員電車は見ないふりして「密です」なんて言ったりする。
 正義は悪だ。悪は正義だ。くそう。どっちだ? 何が正解なんだ?
 虫歯は悪だ。それは間違いない。
 久しぶりの歯医者で、どうにも緊張しているようだ。
 手のひらに人という字を書こう。それを飲み込むのだ。
 …なんでだ? なんで人という字を飲み込むのだろう。
 意味が分からない。
 人という字を飲んだところでちっとも緊張はほぐれない。
 人は悪だ。悪は人だ。くそうどっちだ? 何が正解なんだ?
 それはもう混乱に混乱した。狼狽している。
 怖いのだ。親知らずを抜くのが怖いのだ。
「杏藤さん。どうぞ〜」
 ああ。名前が呼ばれてしまった。
よし、ずっと待合室に座っていよう。
 そんなことが出来たらいいのにな、なんて思いながら私は死刑執行人のように診察室へ向かうのだった。

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