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しあわせのためのファンファーレ

この世界の人々にとって、幸福とは快楽を意味する。快楽が悪でもなければ、対する苦難も悪ではない。快楽と苦難は、まぁ言えばコインのように表裏一体。もっともっと!と快楽を求めるほど痛みも増える。それが問題だ。快楽とはまことに結構なことである。マントをひるがえしてヒーローになったり、ロバにまたがったり、ロブスターにかぶりついたり、キッチンでムーンウォークしたり、猿妻の尻太鼓をたたいてみたりすることは喜びである。でも、これらの快楽に幸福が伴わなければ、後々うんざりするほどガッカリすることになる。それなら何もしない方がマシだ。
 
快楽に幸福が伴わなければ、不安という名の毒に少しずつおかされながら、喜びが依存となり、いつの間にかそれがないと、どうにもいられない状態になる。
 
じゃ、快楽と幸福の違いはなんだろう?快楽とはキミの外側からやってくる。蒸し暑い日の涼しい風とか、絶品のラーメンとか、幼なじみのこすっからい笑顔とか、会社の飲み会に参加しなくて良くなったとか。
 
それに対して幸福はキミの内側に存在している。幸福とはキミに起こっていることの一部なんだけど、快楽と違って一時的なものではない。幸福はもたらされるものではなくて、キミ自身。キミはハッピーモンキーなのだ!
 
別の言い方をすれば、幸福とは真実なのだ。真実とは“知る”ことではなく(知識を得ることは、ある意味、快楽の一種に過ぎない)真実を“生きる”ことなのだ。幸福について知り尽くしていても、真実を生きていないこともある。知り合いにそんな人いないかい?あぁ、俺それ知ってるよって、でも実際は全くトンチンカンな人。
 
誰かに『愛してるよ、わかってるでしょ?』と言われて『うん、そっか、でも、ぜんぜん愛されてる実感がないんだけど....。』って思ったことない?
 
その一方で、知識なんかまったくなくったって幸せってことはある。赤ちゃんや子グマやオランウータンが、幸せそうにしているのを見たことあるでしょ。
 
これらの話が何を意味するかというと、幸福の反対語は不幸ではないということだ。ほとんどの場合、不幸は苦難を意味する。快楽の反対語だ。めちゃくちゃ快楽に溺れた人生を送っていても、とても不幸な人がいる。とてつもない苦難を抱えながらも、ヘンなはなし、幸福な人はいる。
 
快楽と違って、幸福は物事に左右されない。だから、物事がうまくいかなくても、変化しても、愛する人が死んでしまっても、幸福はどこにもいかない。もしキミが快楽中毒だった場合、物事がうまくいかなくなったり、変化したり、愛する人(依存している人)が死んだりすると、とても不幸な気分になる。でも、もしキミが幸福なら、物事がうまくいかなかったり、変化したり、愛する人が死んでしまったりしても大丈夫なんだよ。もちろんキミはそうなって欲しくないし、そのような状態を決して楽しむことはないけど、でも大丈夫。
 
ハッピーって言葉、嫌いかね?胡散臭くて子供っぽい?どこかで会った、恐ろしく「ハッピー」な人たちを思い出す?「ハッピー・ポリス」系の人を知ってる?じとーっとした気分がノラない時とか、ハッピーなんてアホみたいって思っちゃうよね。そういうやかましい・押し付けがましい・これ見よがしの幸せは真実の幸せではないのだ。それはハッピネスじゃなくてマッドネス。
 
幸福って、いつも明るく朗らかなものではない。悲しみやゆゆしさ、(これもまたヘンなことに)激しい傷心をも含む。物事がうまくいかなかったり、変わったり、愛する人が死んでしまったとしても、深い意味での幸福、もしくは大丈夫さを感じることができるのだ。たとえ悲しみで心が壊れても。

 ニセモノが得する世界 に続きます。


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