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春に寄せて

 先週、夜中の街を散歩していた。街歩きの楽しさは都会と結びつきがちだが、寂れていく地方都市を丁寧に練り歩くのにも趣深いものがある。桜の木には少しずつ花が付き始めていた。春分の日が過ぎ、いつ春が来るのか、と私は待ちわびていた。それはすぐ目の前まで迫っているようにも見えれば、まだ冬がしぶとく居座り続けようとしているようにも感じられた。

 街外れの公園の広大な駐車場に停めた車のもとへと近づくと、近くの車の中にちらりと物影を見た。何だろう。特に気にすることでもない。エンジンをかけ、ハンドルを切る。ほんの一瞬、ライトが照らしたその軽自動車の運転席には、春画のような光景が繰り広げられていた。おや、もしかしてこれはーー。

 車を運転して、帰宅してから、ひどい鼻づまりにやられて寝つけずにいた。花粉症の薬を飲み忘れていたのだ。東洋医学では鼻と肺とは呼吸器官として関連しているとは言うが、元々肺が良くない私は、その晩にかなり体調を崩した。花粉を、舐めていた。まだ冬の名残りだから大丈夫だろうとタカを括っていたのだが、おや、もしかしてこれはーー。

 眠ることができず、時刻は朝の5時を回ろうとしていた。カーテンの外はすでに青いが、まだ静まりかえっている。夜の動物が眠りにつき、朝の動物が起き出す前の、ほんの一瞬の静寂ーーこれをエリック・ロメールは青の時間と呼んだ。そのひとときの終わりの合図は、久しぶりに聞く鳥の鳴き声だった。それは鶯だった。もう鶯が鳴く季節になっていたのだ。おや、もしかしてこれはーー。

 そう、こんな時代だが、今年も春が訪れたようだ。誰の目にも明らかだろう。アスファルトの黒と歩道のグレー、そして街路樹の茶で構成されていただけの殺風景な名もなき通りの多くが、今はその茶の上に無数の桜色を散らし、まるで別の街角へと生まれ変わったかのように華やいでいる。

 頬に厳しく吹きつけた風は、柔らかな湿気を含んで、撫でることの優しさを思いだしたらしい。その風に舞う主役は、もう朽ちるのを待つ枯葉ではない。蕾から生まれたばかりの色鮮やかな桜の花だ。風に揺れ舞うときの、ふわりとした軽やかさが、枯葉のそれとは違う。その軽やかさはどこか、若さゆえの身軽さと脆さとを象徴しているようにも見える。

 大きさだけが取り柄の地味な街路樹を装って一年ものあいだ沈黙していた木々たちが、いっせいにその花を咲かせる数週間。それは舞台におけるクライマックスであり、ひとつの見せ場なのだろう。桜吹雪が衆目の前にあらわになるということは、その物語の山場が訪れたことを意味するからだ(幼い頃に祖父に抱えられ何度となく観た遠山の金さんで、私はそれを学んだ)。話のクライマックスを流し見することはないだろう。野山へ出て、街へ出て、その最高潮の瞬間の空気をぜひ感じとりたい。たとえそれが、すぐに散ってしまうものだとしても。

 美しい女がいたとして、いつかは別れなければいけないことが事前に分かっているのなら、出会うことそのものを躊躇うだろうか。確かに、愛情が生まれなければ喪失の苦しみもないだろう。最初から出会わない方がよいと考える向きもあるかもしれない。しかしそれは決定的な間違いに他ならないだろう。利口になりすぎてはいけないのだ。生まれ落ち死んでいくだけの虚しさを根底から塗り替える強烈で確かな感触は、それがいずれは無に帰す儚いものだと分かっていながら、それでもなお自己欺瞞的になって飛び込まないことには手に入らない。同じ無に帰すだけの日々なら、不感症の日々より、没入することができ、刹那的であろうと仮初めであろうと充足感を得ることのできる方の日々を選ぶ。それだけの話だろう。

 桜を照らす陽光もまた、気のせいだろうか、以前よりもその明るさをいくぶん増したように感じられる。新しい季節の始まりは、遠く離れた恒星からも祝福されているのかもしれない。地球外に生命体がいるとして、その彼らが宇宙の片隅の惑星に暮らす我々人類をわざわざ気にかけて祝ってくれるほどにお人好しだとは考えがたいが、この惑星に動植物が適応できる条件が揃い、そこに私たちが意思を持った生命体として存在し、生の営みの酸い甘いを享受していること、それ自体がすでに、長い歴史の中において気が遠くなるほどに壮大な祝福を受けたことの証かもしれない。そのあたりは、バチカンに答えを求めるよりは、イーロン・マスクが解明するのを待ちたい。テスラの株は、買わないが。

#エッセイ #日記 #春 #ロメール #桜 #美女 #地球外生命体

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