またロンドンの地下鉄で
ニューヨークの地下鉄で流行しているその不思議な遊びについて見聞きしたのは、いつ頃だっただろうか。
決闘。それがその遊びの名前だった。
プレーヤーは二人。それは隣り合わせた乗客どうしのことが多い。決闘の始まりには、条件がある。その条件を満たしたとき、決闘は自由意志によって唐突に開始される。
それは海外の地下鉄だから自然に成り立つ遊びだ。電車内で見知らぬ乗客とフランクにコミュニケーションを取ることが忌避される日本の文化においては、輸入されたとしてもすぐに消滅するだろう。
羨ましかった。海の向こうの、柔軟で、ユーモアのある土壌が。
だから、私もやってみたかったのだ。決闘を。そしてそのタイミングは、偶然にも条件を満たしたある日の地下鉄で、やはり唐突に訪れた。
平日の昼過ぎのノーザン・ラインは空いていた。Tubeと呼ばれるロンドンの地下鉄に乗って、私は街の中心にあるレスター・スクエア駅へと向かっているところだった。
トンネルを抜ける轟音は、日本のそれよりも大きくてうるさい。すかさずイヤホンの音量を上げた。音は多少漏れてしまうだろう。しかし幸いにも隣の席には誰も座っておらず、そもそも、この轟音ではなにも聞こえまい。
目を瞑ると、イヤホンの先端の小さな穴から鼓膜を通して脳へと伝わってくる心地良くも刺激的な音の連なりに、私は没入した。
隣に人が座る気配を感じて、私は薄目を開けた。防犯意識、なのだろうか。わからないが、そういった場合、いつも隣に座っている人を確認するために一度目を開けるようにしていた。
最初に視認したのは大きなアフロヘアーだった。目玉焼きのように自由な形に広がった、非常に大きなアフロ。そのアフロがヘッドホンを装着して、前後左右に揺れていた。
やばいやつかな。いや。大丈夫そうだ。ロンドンでは一般的だろう。彼はただ──音楽が好きすぎて、地下鉄の座席で一心不乱にエアドラムをしているだけの、普通の青年だ。
私は咄嗟に、決闘のことを思い出していた。今だ。このアフロに、決闘をしかけよう。そのための条件は、奇しくも揃っていた。
決闘を開始する条件は、互いがイヤホンやヘッドホンで音楽を聴いていること。たまにスピーカーを電車に持ち込む猛者がいるが、それでは条件にそぐわない。
そして決闘の内容は──互いが聴いている曲を、スマホの画面を提示して見せ合うこと。よりクールな曲を聴いていた方が、決闘の勝者となる。
レスター・スクエア駅が近づいていた。やろう。やってみよう。
ジャケットの右ポケットに手を入れると、スマホを取り出した。わざわざ決闘のために曲を変えるような真似はしない。条件が揃ったその瞬間に聴いている曲を出し合う──風の止み間の一瞬に、振り向きざまにピストルを抜くように。だからこそ、決闘だろう。
完全に自分の世界に入っているアフロは、俯き加減でエアドラムを続けている。周りの乗客は特にそれを気に留めてもいない。アフロを意識している乗客は、私一人だった。
ゆっくりと、さりげなく。代官に袖の下を渡す越後屋のように、私はスマホをアフロの眼前へとスライドさせた。
“Spanish Joint” - D’Angelo
ん、なんだ? と、アフロの視線が私のスマホの画面に向くのがわかった。そしてそこに表示されている曲名を確認すると──おそらく地下鉄に乗ってから初めてアフロはその顔を上げ、私を見た。その顔は、かなりクールな笑顔だった。
クールだ。なんてクールな笑顔だ。そしてなんてクールな遊びなんだろう。私は、私の聴いている曲がクールかどうかなど、ハナからどうでもよかった。どのような曲にもその曲のよさがあるのだ。それを見せ合い、趣味が合えば喜び、知らない曲なら教えてくれたことに感謝すればよい。
それよりも、決闘という文化のクールさに痺れていた。たまたま地下鉄で隣に座った音楽好きどうしが、それをきっかけに、短いやりとりを交わす。そこに人生の素晴らしさを感じた。たまらないではないか。私は今日、この決闘をやるために、ノーザン・ラインに乗ったのだろう──いや違う。私はレスター・スクエアに用があるのだ。
電車はレスター・スクエア駅に着くところだった。降りなければいけない。決闘をできたこと、なによりその申し出に応じてくれたことに感謝して、アフロに笑顔を返した。楽しかったよ、決闘。短かいけれど、私はもう行かなければいけないんだ。
私が立ち上がろうとすると、アフロは、思い出したようにジーンズのポケットを探り、スマホを引っ張り出そうとしていた。そういえば、まだアフロの曲を見ていなかった。なんだろう。確かに、最初から気になってはいたのだ。アフロがエアドラムで叩いている曲が。どれどれ──。
“Zombie” - Fela Kuti
まったく、アフロを突き詰めたようなアフロだ。それはアフロ・ビートの巨匠、フェラ・クティだった。
視線と人差し指を、アフロのスマホの画面に。それからアフロの目を見ると、私は人差し指を引っ込めて、力強く親指を立てた。じゃあな、アフロ。アフロも私の目を見返していた。なにも言わなくても──そう、私たちはこの決闘のやりとりのすべてを音楽を聴いたまま行なっていた──その目で同じ感情を共有していることがわかる。それは、さながら、代官と越後屋の阿吽の呼吸だった。
混雑したレスター・スクエア駅の構内を抜けて、さらに混雑した地上へと出ると、当たり前だがそこに地下鉄は走っていなくて、私は少し寂しくなった。
また地下鉄で再会する可能性はなくはないのだろう。しかし900万人が暮らすロンドンの街だ。その可能性は低い。数分見ただけの顔も、すぐに忘れてしまうだろう。
それでも、もしもまた地下鉄でアフロに再会したときは、互いをあのときの決闘の相手だと認識できるだろう。そう確信している。なぜなら、次に地下鉄でエアドラムをしているアフロを見かけたとき、私はその隣に座り、決闘のルールを破るからだ。
そのとき私は、聴いている曲を変えて、最初の決闘のときと同じく”Spanish Joint”と表示された画面をアフロに見せるのだ。その瞬間、アフロはすべてを思い出すだろう。そして私たちは、ニューヨークから遠く離れたロンドンの地下鉄で、決闘の向こう側を見るのだろう。
だからその曲だけは、私は今もスマホから消すことができない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?