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赤信号を渡る

鬼は突然現れる、平穏な日常に。桃太郎でも、一寸法師でも、鬼は突如としてその世界に姿を現す。ただそれは、人が鬼のように変貌したという昔あった出来事が、比喩的に伝えられた結果であると解釈するのが妥当だろう。現代においても、このようなニュースは頻繁に目にするものだ。
その日は打ち合わせが重なり、会議ごとに新たなタスクが増えていった。翌日から新しいプロジェクトが始まることもあり、私はその日のうちに全てのタスクを片付けようとしていた。適当に終わらせて早く帰ることもできたが、ひとつひとつの仕事に手を抜きたくない思いもあり、結局全て終えてオフィスを出たのは深夜1時過ぎだった。いつもならタクシーで帰る時間だが、このままタクシーに乗っても頭は惰性で仕事のことを考え続けるだろう。家に着いた頃にはさらにタスクが増えていることを危惧した私は、頭と身体を強制的にリセットするため、冬の冷たい空気の中を歩いて帰ることにした。目黒にあるオフィスを出て深夜の風を感じながら歩いていると、外苑西通りに出た。交差点を渡り、通りに沿って右に曲がる。大通りとはいえ遅い時間なので車は少なく周りの明かりもまばらだった。白金トンネルを抜けて緩やかな長い下り坂になると、そこからは何本もの細い道が大通りに繋がっている。ほとんどが一方通行の道で、信号機が設置されている道もあれば、ない道もある。車は滅多に通らないので、ほとんどの信号はまるで意味をなしていない。昔付き合っていた彼女に「車が来ていないのに赤信号を守るなんてナンセンスよ」と言われたことがある。そして彼女は「赤信号というだけでボーっと立っているなんて時間の無駄。思考停止じゃない」とも付け加えた。長い下り坂を歩いていると時折通る車の音が唐突にあたりの静けさに響く。少し離れた後ろで、外国人の親子が歩きながら楽しそうに話している声が聞こえた。内容までは聞き取れなかったが、深夜の暗い夜道を歩いているのが自分ひとりでないことがわかっただけで、少し気持ちが楽になった。しばらく歩くと赤信号と一方通行の標識が見えた。私が横断歩道に辿り着いたときも信号は赤のままだった。一方通行の道の先に目をやると、少し離れたところから車がこちらに向かってくる。彼女の言葉を思い出しながら、私は急ぐことなく横断歩道を渡り終えた。彼女に言われたからなのか、自分の考えが変わったからなのかはわからない。そのどちらでもなく、ただ夜が深くなり寒さが増して早く家に帰りたかっただけなのかもしれない。少し歩くと突然、後ろからクラクションの音が聞こえた。振り返ると横断歩道の先で外国人の親子がよろけている。そして先ほどの車が私の視界に入り、横断歩道を横切った。信号を左折して大通りに入っていく車を目で追いながら、私は状況を整理し始めた。彼らは車に気づかず、私の後ろ姿に釣られて横断歩道を渡ろうとしたのだろう。クラクションの音で車に気がつき、間一髪のところで止まることができたようだ。私は安堵した。しかし同時に罪悪感も感じた。もし私が赤信号で止まっていたら、親子は同じように赤信号で止まっていただろう。彼らの歩くスピードがもう少し早かったら、車に轢かれていたかもしれない。たまたま事故には繋がらなかったが、私の行動が人の命を奪うきっかけになったかもしれない。今回は運良く助かったものの、もしかしたら最悪の結果を招いていた可能性もあった。私は頭の中で最悪の事態を想像した。
親子が私に釣られて横断歩道を渡っていると、突然クラクションの音が鳴り響く。細い道から飛び出してきた車のブレーキは間に合わず、2人ともボンネットをトランポリンのように跳ね上げ、車の後方まで飛ばされた。2人が地面に打ち付けられ、あたりには車のエンジン音だけが響いている。ゴムの焦げたような臭いを感じていると、車から男が出てきて叫んだ。「大丈夫か?!」。しかし2人は微動だにしない。男は車に戻り携帯を掴んで2人の元に戻ってきた。肩で息をしているのが少し離れた位置に立っている私からもわかる。しばらくその場にいると、子供の額から細く流れる血が、車のハザードランプに照らされて、断続的に赤く光っているのが見えた。男は携帯で状況を詳しく説明しているようだ。一瞬、親子の方に駆け寄ろうかと考えたが、できることは何もないだろうと判断し、そのまま振り返って歩き出した。私はこの親子のことを知らないし、顔すら見たことがない。彼らに何が起ころうと、私の責任が問われることはないだろう。しかしそれでも、私の中に生まれた罪悪感を消し去ることはできない。私が赤信号で止まっていたら、この事態は起こらなかっただろう。
自宅まではあと15分ほど。仕事のことはすっかり頭から消えていた。代わりに、心の中では何度も最悪の事態を想像している。それが現実でないとわかって安堵する一方で、最悪の事態を想像する行為を止めることはできなかった。ある日、私の中の鬼が突然目覚め、その想像を現実にする。横断歩道に近づいたら少しだけ歩みを緩め、意図的に後ろを歩く親子を引きつける。そしてタイミングを見計らって横断歩道を渡る。交差点の対面にたどり着いた瞬間、急ブレーキの音が聞こえる。クラクションの音を聞きながら私は振り返り、そして親子が宙に舞う姿を目撃するだろう。彼らが道路に叩きつけられたとき、私の中でこれまで抱いていた罪悪感や不安は消え去り、新たな自己が芽生え始める。それは内なる厳格さと思考の深淵に傾倒する自らの性質が己の殻を破り新しい形で表層に現れたものだ。冬の冷たい空気が肌を撫でる。身体を流れる血が熱くなっているのを感じる。振り返って新たな一歩を踏み出す。

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