なにかを志すと決まって不安になる話
私は、下手の横好きに過ぎないですが、同年代の中ではある程度多趣味な人間だったと思います。
ゲームだ、イラストだ、音楽だ、編集だ、料理だ、文書きだとかとかあげればキリがありません……(まあ、多趣味というのは方便で、ただ興味の移り変わりが激しいだけだったと感じますけれど……)
文字にしてみると、ほとんどのものがサブカルチャーの域を出ませんね。
ヲタクを名乗れるほど何事にも詳しくありませんが、きっとそういう傾向の人間なんだと思います……
本題に入りますと、
いろいろなことを貪ってきて、その都度に
「○○になりたい。」だとか「○○を職にしたい。」だとかと想って
一瞬は希望に満ち溢れるのですが、その後、実際に事を起こそうとして急激な無力感、絶望感、虚無感、厭世観にうちひしがれるんですね。決まって…絶対。
私の場合、これはどういったメカニズムなのか…克服したいので、まとめて整理してみます。
第一段階:現職の方との技術力、創造力の乖離
当たり前すぎて口にするのも恥ずかしいですが、これを痛感したときの絶望感無力感はとても形容できないほど……
とあるとてつもなく素晴らしく精巧で美しい作品に惹かれて、そういった作品を作れるようになりたいと思って志すのですが、その作品の素晴らしさに圧倒されて、あまりにも矮小な自分に絶望してしまうんでしょう。
きっと、これの根本的な解決はこれからも望めないでしょうけれど、
この先にいかないと何者かになる最低条件は満たせないんだろう。
僅かだけれども、なれる可能性を求めていかなきゃなれないと考えよう。
第二段階:自分が努力を続けられるかへの不信
まあ、第一段階をかろうじてクリアしたとて、待ち構えている問題。
それがこの第二段階。
仮に、仮に目標に向かって動き出そうとなれたとしても、
成就するかもわからない願いへの私の情熱は続くだろうか、
私はそこまで努力してくれるだろうか。
そんな思いが頭の端にいつも浮かんでいます。
前述した通り、これまでに何か一つにあきらめず、努力、情熱を注ぐことができませんでした。
これまでの自分を見ると、何も全うできてない。
できる方が珍しいのかもしれないですが、その珍しい側にいけないとはじまらない。
きっと、努力し続けられない自分を認めたくないのだろう。
そのうえ、こうした不安だとか絶望感を言い訳に結局何か行動を起こし続けられない自分を鑑みると、まあ……自分の意志薄弱さに絶望……
あとはたぶん個人的な理由
ここからはあんまり一般論じゃないかもしれませんが思ったことを……
そもそも、なぜ「○○になりたい。」とか「○○を職にしたい。」とかと私はおもったのだろうかと考えてみると、
ほとんどの趣味が、「趣味自体やってて楽しいから」という理由ではない…はずなんです。(もちろん楽しいのは楽しいですが、一番の要因ではないと思っています。)
要因になりうるものは、趣味の分野によって違いますが、他人に楽しんでもらえるとか、ほめてもらえるだとか、きっと言い尽くせないほどあります。
いまの「○○になりたい。」でいちばん大きな要因になりうるのであれば、
「コンテンツに触れる楽しい時間を永遠に続けさせるために、自分でコンテンツを創り続ける必要があるから。」なのかもしれないと思っています……
ちょっとわかりにくいですね。
たとえば、素敵な作品達を読んだり観たりする時、「終わらないで欲しい...ずっとこの時間が続けばいいのに。」と思うことはないでしょうか。
そんな時に、「私がそういった作品を創れるようになれれば万事解決ではないか。」と思ったはずなんです。
無論、素敵な作品は尽きぬほどこの世界にはすでにあるはずで、
それを探そうともせず、自分で創り出したいとはあまりにもおこがましいですけれど……
そうなんです、素敵な作品を自分で再生産したいというのがいちばんの動機ですから、
素敵な作品を自分が作れないと満足しない完ぺき主義に陥ってしまうんですね…..
もちろんのこと、最初からそんな素敵な作品書けるはずありませんから、
現職の方との技術・創造力とも、自分の最大の動機とも、かけ離れている今の状態を自覚せざるおえない。
そんな状況に不安絶望を感じているんだなぁと書いていて思いました。
自覚して着実になにかするしかないですね。がんばります。
大変恥ずかしく稚拙な書き散らしをもしここまで読んでくれた方がいれば、ありがとうございます…
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