見出し画像

逆説が理解できない高校生 5

 記事の時代は平成10年前後。
 登場する当時の高校生は、すでに40歳を超えています。
 昔話に過ぎないのですが、この頃の「学校五日制×学力崩壊×教員の長時間労働」が現在の教育課題につながるという個人的印象を持っています。
 そして、進学校でも、そうではない学校でも、「逆説・比喩」が理解できない高校生が顕在化し、「学校・先生への依存と反発」という誰も幸せにならない言動を示す人への対応に、膨大な労力を使うようになるのです。いわゆる「教育のサービス化」ですね、悪い意味での。

嫌いな人に評価されたい

 「4」で書きましたが、「暴れる生徒さん」「要求し続ける保護者さん」に共通する傾向として、当時の私はこんな仮説を立てました。
 ・嫌いな人に評価されたいらしい
  (先生のことは嫌いだが、自分のことが認めさせたい)
 ・自分のことを評価してくれない人に評価してほしい
  (悪いことばかりする我が子だけど、いい子だと認めさせたい)

 今では、こういう心の動きは、自己評価と結びつけて分析されているようです。「自己評価の低い人は、自分のことを低く評価する人に、評価されたいという気持ちを持ちやすい」だそうです。この関係性が、学校だと「先生:生徒」「保護者:先生」になります。こうした傾向は学校特有の現象ではなく、家族・企業・地域などなど、「組織と人間関係」のある場であれば確実にそういう人は存在して、そういうトラブルが起きるのは珍しくないとのことでした。
 では、トラブルにしないためにはどうすればよいか…。この問題を「自己評価」という視点から考えるならば、「長所を伸ばす」「小さなことでもほめる」「合言葉は伸びしろ」と考えられます。 

この仮説に基づいて自分の行動を変えてみた

 荒れる学校勤務時は、「冷たい」と言われました。
 荒れる学校の生徒さんや、学校への依存と反発とを示す保護者さんにとっての「理想の先生」とは、「毎日ネクタイをしている先生」「進路指導に強い先生」「わかりやすい授業をしてくれる先生」です。実態は別として、表面的にはこの条件を満たします、私。
 当時、田舎町の高校で、毎日ネクタイをして仕事をする先生は少数派でした。要するに、上記の3つの条件は、荒れる生徒さんとその保護者にとって、「理想とすれぞ、存在しないはずの先生像」だったわけです。しかも、酒と煙草がダメ。というわけで、私は「先生のあるべき姿を満たしている」ということになります。
 しかし、このことは「都合の悪いこと」でもあります。なぜなら、自分たちに都合の悪いことがあった時、私のせいにしにくいから。近づく隙がないから。
 で、関係を詰めようとして「冷たい」と言います。
 侮辱の言葉をかけながら、私からの評価を求めるのです。この構造は、のち進学校に異動しても同じ。

荒れる現場で意識していたこと

 荒れる生徒さんに振り回される日常ですが、主導権は奪われないこと。
 そのために、授業や進路では、荒れていない生徒さんが主役であることを意識しました。管理職などからは、「あいつらを何とかしろ」と言われるのですが、「あいつら以外の生徒さんへのきちんとした対応」が重要だと思っていました。
 短期的に解決する(叱責・処分)より、長期的な対応(ほめる・認める)ですね。
 すると、生徒さんにも「生徒という公的な意識」が芽生えます。そういう生徒さんには、ほめるという対応が通じます。
 一方で、「冷たい」という生徒さんは、「ほめる」とそれを嘘だと言います。出会った理想の先生は冷たくて嘘つきなんです、その生徒さんにとって。本心はもっと深いところにあるのでしょうが、そういう発想・思考・表現しかできない…。

本心はもっと深いところにある

 教育って何だろう…と思いました。
 こういうことを書くと怒られるかもしれませんが、文学研究は、長期的には人類に貢献し、その文化の継承と創造につながるものです。しかし、短期的に大きな社会課題を解決する…そういう臨床的な要素はありません。
 たとえば、太宰を読んで厭世的になって心を病むという…そもそも文学にはそういう要素もあります。しかも、現代であれば太宰という人はコンプライアンス的には完全にダメな人で、ダメな作品も多いです。そんなこともあって、文学に価値を認めてくれる人は、少なくなってきました。
 で、教育ってのは、「教=短期的成果、たとえば第一志望に合格する」ってのと、「育=長~い目で見てその人の良さを引き出せるような環境を作っていくこと」ということの共存です。
 「短いものさし」と、「長いものさし」とを一本ずつ両手に持ってするお仕事なんですね。この逆説を理解できないのは、高校生だけでなく、実は管理職レベルにもいる。
 そして、予備校と言う「短いものさしで結果を出すことが生存戦略」であった場で育った私の目に、学校への疑問が浮かびます。正確に言えば、「学校と言う場に、短期的成果のみを求める生徒さん、保護者、管理職の価値観」への疑問です。つまり、逆説を理解しない、逆説の実現という発想のない人に、少々疲れてきたのです。このことが、のちのち教員を辞める・現場を離れることの「芽」だったようですが、それはまた別の話。

                            続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?