見出し画像

自分を生きる

日々かなり色々と思い悩む中で、こんこんと悩みを突き詰めていくと、見る映画や見るアニメがなんだか一つの"人生"を表しているように見えてくる。おそらくこれはかなり自分が苦悶しているからこそつまり「自分が追い詰められている」からこそ、その一つの作品に"生きる意味"を見出そうとする働きがあるのだと思われる。

そんな中でブログや発信の方向性について色々と分からないことがあって、ふと「では現にブログの一線で活躍している方はどんな発信をされているんだろう」と思い、作家の吉本ばななさんの購読マガジンを購入した。

そこで私は驚いた。まず一つはその文章量、もう一つは人間について考えられた、日々を汲み取った日記のようなブログ体であった。なるほど、このように自分の日々感じたものを丁寧に汲み取り、それを言葉にして紡いでいくことこそ「生きる」ということであって、人間はこのように日々を感じ、味わい、時には反発して(それは心の中で)生きてもいいのだな、と思った。

吉本ばななさんのブログに感銘を受け、そしてそれと同時に、「あれ、もしかしたらこれは自分にもできるのではないか」と思って日々を汲み取る日記を書こうと決めた。そんな無名の私が一流作家さんと同じだなど笑止千万と言われるかもしれないが、私はそれでも日々を汲み取り生きるという観点に於いて、自分の生活の豊かさを担保するために書いていこうと思う。

私は大学に入る以前からブログを始めて、大学に入ってからそのブログ活動が割と熾烈を極めて、今は少し大学もブログも休んでいる、という段階にいる。というのも私には生育歴的に機能不全があり、「完璧でなければ許されない」という思い込みが強く、本当に強く、あったので、私は文字通り命を懸けてブログを書いてきた。その内容もかなり内面的なもので、内省的な人物に響くような(響けばいいと思っている)内容だった。

たくさんの発信者やアーティストを見ていると、とりわけ大まかに分類してそれらの人たちは「個」から「抽象」へと移行している気がする。別の言葉で言えば「個別的」なものから、「普遍的」なもの、「具体」から「一般的」なものへと移行している気がするのだ。しかしながら私のブログはというと、最初に「普遍」を提供している気がする。そんな、一無名のブロガーが普遍を提供しているだなんて思い上がりも甚だしいと言われるかもだが、それでもやはり私はある一定普遍を述べた気がする。そこに個はあまりなく、色々と見てみて普遍や抽象が私のブログでは認められる。ここが少し世の中の流れとは逆を行くように感じ、そして私が今書いてる日記体のブログ、こそ"個"に移ったことを示している。「普遍から個へ」、これが一つ私のブログの特徴でもあるようだ。

私は22歳なのだが、36歳のパートナーと付き合っている。あ、ちなみに私は男で、パートナーは女性だ。もう付き合って3年になり、ずっと遠距離なのだが、関係は続いている。彼女は色々と男性問題に苦労した過去があって、今はアルバイトとして働いている。私が北海道にいて、彼女は宮城に住んでいる。その彼女と最近あった出来事で、彼女が仕事で悩みを抱えていて、それは簡単に説明するとこのようなことであった。「身近な女性社員に嫉妬のような感情を抱えてしまうことがあり、日々仕事も勤勉に努めているけれど、どうもやはりモヤモヤする感情があり、でも、私はそういう自分の嫌な部分をしっかり抑えて、人を褒められるような人になりたいから、頑張っていこうと思う。」というような悩みだった。要は身近な女性社員に劣等感を持ってしまうことがあるのだけれど、そんな自分は醜いから、もっとちゃんとしなきゃだよね。という相談だったのだ。私は彼女と話す時よくこういう話をするのだが、私がそこでとった対応はそこと逆を行くような内容だった。「もっと欲張ってみたらどうか。もっと欲張って、その女性社員を越えてみようとしてみてはどうか」このようなことを言った。詳細に説明すると長くなってしまうので、簡単に説明するが、人は自分の妬みや怒り、あるいは嫌らしい感情をよくないものと思ってしまう気がする。とりわけそれが社会的体裁を気にしやすい日本人であるなら尚更。でも、一旦それをやめてみたらどうか。もっと言えば嫉妬や怒りというものを大きく育ててみたらどうか。それはもちろん他者に害を成す、というものではなく、その感情を抱えてより会社で行動する大きな原動力としてみたらどうか、ということを説明したのだ。

そうすると彼女はまさかの回答に一瞬驚いたけども、何か大きな疑問が氷解したかのような声色をした。「ああ、そうか。これを(こういうネガティブな感情を)持っててもいいんだ。」ということを彼女は思ったらしい。

それからというもの彼女は以前よりも元気になり、働くことにやりがいを感じるようになったと言う。「あれが聞けてとても楽になった」と、その時の話を回想してくれる。これは別に私がいい彼氏をやっているとか、理想の彼氏像などを誇示するために話しているのではない。ここでの私のポイントは、欲というものを認めて大きくすること、それこそが本当の意味で人のためになること、この心のメカニズムを説明したことにある。というのも、この謙遜が美徳とされる日本社会では、人に対する妬みや嫉みという感情はどうもよからぬもの、"忌むべきもの"と扱われているような気がするのだ。しかしもっとよくよく考えれば、実のところ日本でのそういう嫉妬が原因のトラブルの根源はつまるところその嫉妬がうまく昇華されていなかった、あるいは本人のどこか根本的なところで、ある一点で、嫉妬が認められなかった、というところにある気がするのだ。つまりはその本人が禁欲的であったから、トラブルが起きた、と思うのだ。それはなぜかというと、「自分はこんなに我慢している。なのにあいつは!」という思考になるからである。だから逆を言えば、自分の欲を本当の意味でよくよく認めていたら、承認していたら、こうなるはずだ。「自分は満たされちゃってるし、この幸せをあげちゃおう♪」と。つまりはそこに我慢がなく、そこには余った余分の幸せがある、だからこそ人に寛容になれる、というメカニズムだ。つまりは本人の根本のところで自分の欲や妬みというものをしっかりと認められていたら、そしてそれをさらに自分の仕事への推進力、"欲張り"にできたら、元気になるのではないか、ということなのだ。

だから私は常々彼女に「欲張っていこう!」ということを言っている。そして心なしか、彼女はとても雰囲気が柔らかく、心のつっかえが取れたような朗らかな表情をしていたのだ。私はただ、心のメカニズムを説明したに過ぎない。このようなことが最近あった。



3年ほど前、仏教を学んでいて、そこで1人の友人を持った。彼は当時16歳の高校一年生で、それでいながらとても賢い人だった。しかし色々なことがあって、彼の元々持っていた精神的な不調などが重なり、私もうつになってしまったこともあって今は離れ離れになってしまった。彼は家庭環境が恵まれず、親の離婚や親の理想論に苦しみ、自傷行為をしていた。自傷行為をせざるを得なかったのだと思う。

私は彼がどうしたら笑えたのか、あるいはどうしたら"普通"の生活を送れたのか、そのようなことを考える期間が1年ほどあった。そしてそれも結局は、彼の持つ醜い感情(彼が醜いと思っている感情)こそが、本当の意味で自分を生きるという上で大切なものだ、と言ってあげることだったのではないか、という結論に至った。でも当時は、私自身が禁欲主義、にいたので、そのような対話をしてあげることができなかった。お互いに、社会から殺されていた。

過去に永遠の狭間(えいえんのはざま)という言葉を使ったことがある。これはあまり言わない方がいいかもしれないと思ったけれど、そのときはあまりに社会に殺されていたので、その言葉を吐くしかなかった。えいえんのはざまは、とりわけ"経験"がある大人のことを言う。そしてもっと言えば経験に縛られている大人、のことを言う。実はこれが私の父親なのだ。経験に縛られるってどういうことかって言うと、「自分の力こそすべて」と思っている人たちのことを言う。そしてその人たちは絶対的に自分の経験を信じ抜いている。実はそれが他人を苦しめている元凶であることが大きいのに、彼らはそんな自分はとても人間というものを、この社会を、理解した、理解し抜いた立派な人間である、と思っている。そして思うに、その経験に縛られた人間、この人だけが自分の自己実現を子どもに転嫁するように思われる。そして経験に縛られる人間は、過去に捉われた人間であるとも言える気がする。つまりはなぜ経験に捉われるのかと言うと、ずっと過去の経験にしがみついている、からであり、なぜ過去にしがみつくのかというと、自分の未来を生きていない(自己実現ができていない)ということだからだ。これを等式で表すと、経験に縛られる=過去に生きている=未来を生きれない=自己実現を転嫁する=えいえんのはざま、ということになる。これは私が大人を観察していてただ「見つけた」仕組みだった。別にその人を排斥しようとは、今は思っていない。時には殺してやろうかと思った時もあったけれど、今はただ「関わらないでね」と思っているだけだ。

吉田松蔭の名言にこんな言葉がある。これは名言集で見た言葉なので、実際に吉田松蔭の言葉なのかは怪しいとこがある。けれど言ってる内容は、本物だと思う。それはこのようなものだ。
「人間というものには"気"というものがあって、それは人それぞれその持つ量が決められている。そしてその人間はそれらを抑制していくにつれて、反対にこの力がより大きなものとなり、ついには人間確固不抜の境地に出る。しかしこの"気"を解放した人間は、次第に力が衰えていき、最終的には力がなくなって、物事を常識で考えてしまうような惰性の人間になってしまう。」このようなことを松蔭は言っていた。

そしてこの気を解放する、というのが子どもに自己実現を転嫁する、このことに他ならないと思う。これが気を解放してしまった人間の姿だと思う。そうなった人間は、自分で自己実現をしていないので、無論、この社会を渡り歩いていく人間にはなれない。最終的にその人に残るのは、自分が何もしてこなかった後悔と、何者にもなれない質の劣化した怒りだけである。そしてその人が手がかりにするのは結局のところその人が自己実現を転嫁してきた、"家族"である。

こういうことが日本の社会で多く起きているのだと思う。そしてその根源は何か、と言ったらつまるところその親自身が禁欲していること、に他ならないと思うのだ。つまりは自分を愛せない。だから自分の人生を生きれず、他者に自己実現を転嫁する。だからそれを解決する道は、その本人の自愛不全をどうにかするしか、道はないのだと思う。しかしそれを子どもである私がする義理はないし、そんな役割もない。そんなことをやって仕舞えば、本当の意味で親子の役割の逆転である。でも、それもしょうがないかな、なんて思ったりして、私は以前に「真アダルトチルドレン」ということを言った。それは親の自愛不全を、自愛ができた子どもが解消してあげる、という親子の役割の逆転をもう受け入れた、絶対的にありえない、でも極一部の人間ができるかも分からない、親の心の開発のことである。私はこの真アダルトチルドレンをやろうかな、と前々から思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?