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悩む

昨日は少し調子がよかったのに、今日はあまり調子が優れませんでした。そういう日はだいたい朝から何か重い感じ、がします。朝から何のやる気も出ないのです。でも思い返してみれば日曜日はいつも具合が悪くなる流れがありました。もしかしたらと考えると、土曜までは学校があって、それが日曜に解放されるから、それまで溜めてきた苦労が今になって出てきているのかな、なんて思いました。そう考えれば、この日曜の不調も実は望ましいことが起きていた、とみることができます。

私は自分の悩みを相談できる人はいますが、思い返してみればあまり本当の悩みを話したことがありません。というのも、自分で言うのもあれですが、私レベルの深さで悩んでいる人が身近にいないからです。その証拠に周りの人にその悩みの全貌が見えるようなちょっとした小話をすると、「休んだ方がいいよ」とか言われます。ここでのポイントは私の悩みを聞いてくれた人は何か偶発的な、単なる不調、だと私の悩みを捉えていることです。しかしながら私の不調は多分ですが、明確な理由があって起きています。今日の不調はおそらく、世の中の浅薄な労働層が道徳を我が物顔で振り撒いている、ことへの反感、でした。私はこのようなことをよく悩むのです。

とりわけ思うに、世の中には生産性ではないのにお金をもらっている、人たちがいる気がします。これは別に私が言わなくても、他の著名な方が言っていることと思います。特に身近な例では毒親、と言われる部類の人たちは、私はその仕事は本当の意味で生産性ではないのではないか、と思えてならないのです。なぜなら自分の自己実現を他者に転嫁するような人間が、生産性を持ち合わせるわけがないからです。なので私は生産性とは、人の自尊心を促進、あるいは開発することのできる人間こそ、生産性と言えるのではないか、と思うのです。これを思うのは私だけでしょうか。(どうやら私の身近には私しかこれを思っていないのです)

私の悩みの本質的な部分は、それを話せるだけの実存的苦悩をしている人が身近にいない、ということになると思います。また、私はもし実存的苦悩をし抜いている女性を見つけてしまったら、今の彼女のことを放り出して、そっちの女性の方に走ってしまうのではないか、とかいう変なことを考えてノイローゼになってしまうのです。しかし、よくよく考えれば、実存的苦悩を今の彼女がしてないからと言って、それをその彼女に話せない、わけではありません。自分の実存的な苦悩をたとえや比喩を使って、自分のパートナーに話す努力は、無駄ではないと思っています。そして一つ思うのは、例え実存的な苦悩をし抜いている女性がいたとしても、同じような感性を持つ人がパートナーの場合、共倒れしてしまう可能性も大いに高まる、という点があります。故に私の彼女はとりわけ悩んでないとは言いません、彼女も色々なことを考えて、苦しんでいるからです。しかしながら私と比較相対的に"シンプル"な考え方をしている彼女には、そのシンプルさゆえの素晴らしさもあるのだと思います。だからこそ、私は今の彼女を大切にしていきたいです。

実存的(じつぞんてき)と言っていますが、私はこれを明確に誰かから習ったわけではありません。ただシェイクスピアの「生きるか、死ぬか」を考えること、これが実存的ということではないか、と思っています。

日々の中でこういうことを思い悩むことは、非常に苦しいものです。しかしながら1人の人間の突き詰められた悩みは、あるところで普遍を獲得すると思います。そしてその普遍を獲得した悩みは、見る人に何故か温かな気持ちを喚起するのです。それは何故なら、実存的に悩むということは、"平和に生きたい"ということを真摯に希求することに他ならないからです。

私たちは日々あくせく働いています。大学生でさえも働いています。誰1人として、暇な人はいません。しかしながら、この一つの社会の、大衆の、マスの、この流れに乗っかっていって辿り着く場所はどこか、と考えてみると、そこには底なしの滝壺が待っている、そのことに愕然とするのです。だってなぜなら、一つの「流れ」というものは、そこに自らの人生を汲み取った人間がいない社会が発露した愚痴が、加速度的に膨張していくことに他ならないと思うからです。これを聖徳太子は「世間虚仮(せけんこけ)」と言ったのだと思います。

加速度的に膨張した愚痴は、その中身が空っぽであるとしても、人々を惑わせるには十分な量があります。強いていうならありすぎます。私たちははたと立ち止まった人生の転機にも、本来ならこれほど望ましい人生を見つめ直すチャンスはなかったのに、それをその世間の"流れ"が揉み消して、有耶無耶にしてしまうということが多いと思うのです。そうしていつしか自分が悩むことも馬鹿らしいと思った患者(ここでは患者と表現させていただきます)は、その流れに安養してしまうようになるのです。本来安養という言葉は平和にこそ見出せるものだと思いますが、今日での安養という言葉は比較的、非世代的な、つまるところ"停滞"と同じ意味合いがあるような気がしてなりません。この停滞を打破するために、才能のある若者たちは社会的にドロップアウトしたり、はたと自身の世界の軽薄さに足をストップさせられる、のだと思います。

思い悩むとは、そんなに悪いことでしょうか。自分の生きている世界が、この社会が、本当に真っ当と言えるのものなのか、それを考えることは愚かでしょうか。私はそれが許されないのが社会なのだとしたら、本当に生きる意味はこの世にないのだと、思えてならないのです。だから、悩むということ、そのことこそ生きることだと、思うのです。

私は過去、かなり優等生な人間でした。学校での成績もよかったですし、運動もできました。大人の言うことを、よく聞いていたんですね。けれど、途中で限界が来てしまいました。大人たちが"良かれ"と思ってやっていることへの空虚さに、ついていけなくなってしまったのです。世の中に望まれる、羨望のされた優等生は、皮肉にも社会からドロップアウトし、世の中の落伍者になったのです。

そんな自分を私は過去、何度も責めました。時には責めすぎて、精神が狂ってしまうこともありました。精神が狂って、突発的に死のうとしたこともありました。でも、よくよく考えてみれば、精神が狂ってる自分が1番正しかったんですね。

最初の頃に書いた記事には私の心象風景を文章にした詩のようなものを載せました。そこで私はこう言っていました。「私を育てた親もできた人間ではなかった。私にこうしろと指図したあいつも、できた人間じゃなかった。私はあれからもこの道を歩み続けている。この広場にはもう、誰もいなくなった。私だけが、剣を、振い続けている。」このようなことが、実は世の中ではたくさん起きているようなのです。自分で言うのもあれですけど、才能がある人はこういう人のことを言うのだと思います。分からないけど、才能の一つの面は"不遇"だと思います。私にはそう思えてならないのです。

私の尊敬する精神科医の方は、世の中に師というものを求めるとき、そこには二種類の人間がいると言っていました。一つはどの行動をとっても学びになる全人格的な師匠、一つはある特定の技能だけが参考になる部分限定の師匠。このように説明されていたのです。そして私は大学に全人格的に尊敬できる教授はいるかなと期待していたのですが、申し訳ありません、いませんでした。私の見る目がないのではないか、と言われそうですが、私は過去20回自殺苦を通り抜けてきて真摯に人生というものと向き合ってきました。その自分の曇りなき眼から見させていただくと、どうもそこに生き生きとした、ダイナミックな、そして生と死の、限りない青春の人間が、どこにもいないのです。もちろん部分的に学べる教授はいます。それだけでもありがたいのかもしれませんが、せっかく自分の人生を四年かけるなら、全人格的な深さと質のある教授に出会いたかったのです。

規模、というものをよく考えることがあります。それは人間の影響力のことで、人を先導する力です。今日私はトランプ大統領の銃撃事件のニュースを見て、やはり規模が大きくなるとそれだけ反感も買うものであり、時として自分は殺されるものだ、と理解しました。規模が大きくなると、殺されやすい気がするのです。私は過去そんなことを悩んで、2年間死にそうでした。殺されるかもしれない、それを考えて死にそうになっていたわけです。でもしょうがないのです、あまりにも深く悩んでいくと、なぜか規模に出くわしてしまうのです。私はその規模を少なくともこの4月から7月の間に30回は感じさせられました。

お金を、稼ぎたいです。自分の生活費を、稼ぎたいです。自分が生きていけるだけの、資産を担保したいです。私が色々悩んでいるのはどうも結局のところこの一点にある気がするのです。お金持ったら、また永遠のループかもよ。そんなことは言わないでください。あまりにも悪趣味すぎます。こちらもそれには反抗させてもらいます、あなた方の使う文句でもって。「それはその時になってみないと分からないじゃないか。」

明日は海の日なんですね。海、いいですね。海行きたいです。夏の日差しが厳しくなればなるほど、海は輝きを増す気がします。

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