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長生きのあとに来るもの

 高齢になると、自分はまだまだ元気で身のまわりの事は一応やれていると思っても実は人手を借りる場合がとても多くなっている。腕力や体力のいる事、素早くしなければならない事、複雑な事となるとまずお手上げだ。「ゆっくりでいいですよ」「足元に気をつけて」といたわりの言葉をもらうようになるのがその証拠。外からは丸見えなのだ。

 こんな有様だから、一旦病気などの辛い状況に追い込まれると一気に弱り込む。まわりの者は心配して声をかけ手をかけしてくれるが、だからといって「来てくれるから」「してくれるから」と喜んで延々とあてにし続けるわけにはいかないだろう。まわりの者というのは普通に考えれば子や孫ということになるが、その人達にはそれぞれの生活があり、時間や体力、金銭があり余っている人はいないから、たよれる限度を越えないことが重要だ。但し、自分から「もういいよ」と言っても、その先はどうすると問われれば「どうしよう」となるのが目に見えている。

 人の寿命はわからない。先の見えない介護について限度を問われても明確な答は出せないが、若い世代の人は、感情論は別にして、続けてきた介護の役をどこかで打ち切り、専門家にまかせる判断と冷静さが必要だろう。

 とは言うものの、入院や介護施設入居となるとそこをさがす事から始まり、ここと決めてからも複雑な手続きが目白押しで、それらは気力体力判断力すべてが衰えてきた高齢者や病人にはとてもできない。また、在宅で介護サービスを利用するにしても手続きは同じく大変で、要介護の人の手におえるものではない。だからこの時点でも子や孫にたよらなければならないが、幸いにも入院なり入居なりができるとなればあとは子や孫を解放してあげたいものだ。やはり気がかりでお見舞も、となればお金も時間もそれなりにかかりはするが、少しは負担が軽くなるだろう。

  いつまでもすると思うなその介護
  ないと思うなわが身の老後

 いま一番大変なのは超高齢の親を高齢の子が世話をするという形が珍しくなくなってきた事だ。普通は夫と妻の関係の介護を老老介護と言うが親子でも老老なのだ。子は自分が老齢になっても、親よりは若いのだからと自分を励まし無理をしてしまうのだが、無理は無理と割り切るのも大切ではないか。

 子は冷静に自分の老後の設計をしなければならない。自分のために、また自分の家族のために。設計図どおりにならないかもしれないが、自分の老後まで老親に捧げつくすのが親孝行ではない。子の幸せを願い続けるのが親なのだから、子の苦しむ姿を見るのは辛いものだ。元気で長生きが珍しくなくなっても、だれもが死ぬまで元気かと言えばそれば違う。

 遠い昔から妻の仕事、嫁の仕事、子の仕事とされてきた介護は、介護保険制度で問題解決できているのだろうか。

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