まさこ

植物と読書を愛する昭和12年生まれ。 最近作って美味しかったものは、おかずあんパン (…

まさこ

植物と読書を愛する昭和12年生まれ。 最近作って美味しかったものは、おかずあんパン (ソーセージ、じゃがいも、人参などを塩コショウで炒めたものを「あん」にして焼いたパン)

最近の記事

長生きのあとに来るもの

 高齢になると、自分はまだまだ元気で身のまわりの事は一応やれていると思っても実は人手を借りる場合がとても多くなっている。腕力や体力のいる事、素早くしなければならない事、複雑な事となるとまずお手上げだ。「ゆっくりでいいですよ」「足元に気をつけて」といたわりの言葉をもらうようになるのがその証拠。外からは丸見えなのだ。  こんな有様だから、一旦病気などの辛い状況に追い込まれると一気に弱り込む。まわりの者は心配して声をかけ手をかけしてくれるが、だからといって「来てくれるから」「して

    • 行く末が気がかり

       浴衣が古くなったらネマキに。これは常識でした。ほどいて、のりはりして何度か仕立てなおすことをくり返し、もう浴衣として使うのは無理かなと思う程度にくたびれたら思いきってネマキに。からだになじむ、着心地良いネマキです。そして古くなったネマキはオムツに。これもあたりまえの事でした。やわらかい木綿地は赤ちゃんの肌にやさしい。  オムツは毎日毎日洗たくされてくたくたになってもまだ形がありますから、赤ちゃんが使わなくなったら形をととのえてチクチクと縫えば使いやすい雑巾になります。本当

      • アリの後ろ姿

         ベランダで、小さい何かの死骸に小さいアリがむらがっているのを発見した。雨の日の早朝だというのにアリは働き者だ。ひまでたまらないのでしばらく見ていることにした。死んでいる小さい何かは多分クモだと思われたが、そのからだが隠れてしまうほどにアリがたかっている。と、少し離れた所からぽつりぽつりと同種のアリが現れはじめた。ぞろぞろでないのがまた面白い。  しばらく見ていると、何匹かは帰りはじめた。来るのと帰るのとが同じくらいの数になったなァと思っているうちに、その数はますます増えて

        • 花のはなし、木のきもち

           物事がなかなか思うように進まない時、いらいらしたり落ちこんだりする。先の見えない不安な状況が続くと思考は悪い方へ悪い方へと流れていくようで、頭を切りかえるのがむずかしい。ジャンプの前にはしゃがまなくちゃ、と人には言うのだけれど、自分に言いきかせるのが一番大変だ。  今はタネマキの時だと思うことにしよう。タネマキをしている時にもう収穫できるような物はないのだから、いま目に見える収穫がないからといってがっかりすることのほうがおかしいのだ。落ち着いた気持ちで良いタネを一生懸命に

        長生きのあとに来るもの

          年々さいさい花相似たり、さいさい年々人同じからず。よくわかるけれど、人は来年も生きていれば少し古くなってもその人はその人。年々さいさい人相似たりだ。でも今咲いている花は本当に今だけ。来年もその木に花は咲くだろうけれど、今咲いている花を来年見ることはありえない。だから私は花にカメラを向けるのが好き。初咲きは特に。

          人の場合は男女という。動物や植物の場合は雌雄という。先に書くほうが優であとに書くほうが劣だとか、どちらが偉いとか偉くないとか、そういうわけじゃないけれど、なぜかなァって素朴な疑問。こんな熟語っていつ頃できたのかな?

          人の場合は男女という。動物や植物の場合は雌雄という。先に書くほうが優であとに書くほうが劣だとか、どちらが偉いとか偉くないとか、そういうわけじゃないけれど、なぜかなァって素朴な疑問。こんな熟語っていつ頃できたのかな?

          私の海

           三津の港で釣りをした。岸壁の上から竿を突き出すと小鯵が釣れた。私に釣られるなんて気の毒な魚だ。 海の匂いがして、少し曇った空の遠くの方に夕日が見える。足元でピチャピチャと水音がして、垂直のコンクリートの壁が、海水で濡れた跡で潮の満ち干を知らせている。  子供の頃に親しんだ海は、砂浜があって、ザブンと打ち寄せる波があって、サラサラと引いていく水があって、それぞれに心地よいリズムがあった。 ふるさとの海は自然の渚が残っていて、澄んだ海水がいまも美しい。  日盛りに遊んだ砂浜