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【連載小説】『晴子』23

 鶴田のことを思い出した。高校時代の同級生だった彼とは、よくつるんで遊んでいた。放課後を待たずに、昼休みを超えたあたりで仮病を使って学校を抜け出し、高校の近くにあった酒屋の自販機の前で集合した。
 待ち合わせ場所に行くと、鶴田は自販機の前のベンチに座って缶のサイダーを飲んでいた。彼は俺を見て言った。
「今日は腹痛か?」
「残念。身体が怠い。」
 仮病の時に、教師に何と言って抜け出してきたのかを当てるのが定番になっていたのだ。もちろん、いつも二人一緒にいなくなると教師も怪しむから、たまにどちらかだけが早退したりして誤魔化しもぬかりなくやっていた。
「お前、バイトはまだバレてないの?」
「うん。」
 俺が内緒でバイトをしていることを知っているのは、学校の連中では鶴田だけだった。俺がジャズマスターを買おうとしていたことも、あいつには伝えてあった。
「あといくらぐらい?」
「4万くらいかな。」
「おお。来たねぇ。もうちょいじゃん。」
 俺が初めて煙草を吸ったのは、彼からもらったものだった。彼が自分の父親のものを拝借してきたのだ。
「お前も吸う?」
「いや、遠慮しとく。」
「なんで?」
「だって、お前、バレたら謹慎くらうぜ?」
 俺たちが通っていたのは田舎の進学校で、大学への進学を志望するやつらの集まりだったから、内申点を恐れて道を踏み外すやつは少ない。学校からの禁止をかいくぐってバイトをするだけでも、なかなかスリリングだった。
「いいじゃん、結果出しときゃ先生も黙るよ。な?」
 そう言って俺の方に一本だけ吸い口の飛び出したソフトケースを差し出した。俺は仕方なく、一本抜き取った。鶴田はニヤリとして「分かりゃあいいのよ。分かりゃあ。」と言った。
「言っとくけど、結果で黙らせればいいってのは、お前みたいなやつだから言えるんだからな。」
 俺はそう言って、煙草をくわえ鶴田に火を着けてもらった。煙を吸い込むと、初めての刺激に過剰に反応した俺の喉は急に狭くなったように感じた。俺は思わずむせかえり。鶴田はそんな俺を見て笑った。その時は二度とこんなもの吸うもんかと思った。(そんな俺が今や立派なスモーカーだから人間分からないもんだなと思う。)
 実際、鶴田は成績優秀だった。学年のテストでは常にトップで、全国模試の判定でも、早慶くらいなら裕に突破できるという結果だった。彼の実家は父子家庭で弟が一人いた。それほど裕福な家ではないという事情も聞いていた。だから経済的に考えて都心に出るのは難しかったが、それでも彼の頭脳を考えると地方の国公立なら確実だった。
 そんな彼が、大学受験さえしていないと知ったのは、卒業式の後の事だった。鶴田が受験していないことを、俺も含め同級生は誰も知らなかったのは、彼本人がそのことを公表しないよう教師に口止めをしていたからだった。それは彼曰く、周りの同級生の受験モードに水を差すことは避けたかったかららしい。彼も、他の大学を受験するフリをして、なんとか場を凌いでいたらしい。
 卒業式の後、いつもの酒屋の前のベンチで鶴田に聞いた。
「お前、本当に大学行かないのか?」
「うん、そうだよ。親父一人の給料だと、国公立でも大学は厳しいかな。奨学金も考えたけど、貧乏一家にこれ以上の借金はさすがに厳しいかなって。」
「本当にそれでいいのか?」
 俺は信じられなかった。俺より遥かに成績のいい人間が、金がないというだけで大学に行けなくて、学力はそれなりでも金に悩むことのない俺が大学に行ける。子どもらしい一丁前の正義感からか、当時の俺は納得がいかなかった。大学に行ってから、授業で教育格差のこととかを知って、鶴田のようなやつは統計的に稀だということが分かったけど、仮に高校生の俺にそんなことを教えられても、理解できなかっただろう。いや理解はできても、受け入れられなかったと思う。
「悔しいとか、思わないのか?」
 俺は彼に質問を重ねた。
「貧乏人に泣いてる暇はないんだ。俺にとって、悔し涙は贅沢品だね。」
 彼は、卒業式で配られた胸花を外して、茎のところを持って手でくるくると回している。彼は続ける。
「それに、弟もいるだろう?あいつのためにも、早く働きたいんだよね。」
 そう言って缶のサイダーを飲む彼は、自らの境遇を呪うでもなく、ただ諦めていた。彼は泣くこともなく、ただあっけらかんとしていた。
「でも、じゃあ、なんであんなに勉強してたんだよ?」
 大学に行かずに就職を選んだということは、彼は俺たちより一足先にそれを決めていたことになる。それでも、彼は勉強を怠らず、定期試験の時は俺と一緒に机を並べて、試験対策をした(といっても、ほとんど俺が彼に教えてもらっていたのだが)。就職活動が終わった後の定期試験や模試でも、成績を落とすことはなかった。彼は、受験をしないということを前から決めていたのに、どうして勉強を怠ることがなかったのか。そのモチベーションは、どこから湧いてくるのか。ひとえに受験のためにしか勉強してこなかった俺にはさっぱり分からなかった。
「それはね…。」
 彼は少しだけ考えて、そして答えた。
「それは、俺にも分かんない。」
 彼は苦笑していた。
 その苦笑いで分かった。彼は進学を諦めた時に、涙なんか捨てたんだと。彼は社会的には弱者と呼ばれるのだろう。幸か不幸か、その弱さに釣り合わない頭脳をもって生まれた彼は、いかなる意味においてもゴールテープを切る者の涙を味わうことはないと悟ったのだ。
 彼の頭脳を前に、俺も含め教師だって期待したに違いない。「進学しないの?」「どこの大学に行くの?」「本当に諦めてもいいの?」そんな言葉を何度も浴びせられてきたのだろう。進学校の教師なら尚更だ。でも、その期待は彼の弱さには不釣り合いなものだったのだ。
 彼の苦笑いは、その全てを背負い、悟った者の表情だった。


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