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【連載小説】『晴子』19

 Bill Evansの音楽は、私にとって理想の生活の比喩だと思う。
 彼の音楽は、一つ一つ水滴を落とすように音が並べられていると思う。大胆さと繊細さ、すなわち伴奏とメロディーの対比ではなく、ポツリポツリとしたメロディーが曲全体を導いていくような。「神は細部に宿る」なんて格言を信じているわけではないが、繊細さが全てを構成していくような生活に憧れているのは誰の影響なのだろう。
 あの人が教えてくれたジャズは、Bill EvansとCharles Mingusだけだった。
 大学時代に小さなジャズバンドでギターを弾いていたあの人は、私が待ち合わせに遅刻するとCD店や中古レコード店のジャズコーナーで時間を潰していた。
「まあ、ギター弾いてたって言っても、ジャズはギターが花形になるようなジャンルじゃないんだ。高校の時に少しだけかじっていて、コードとかはある程度わかったから、あとはリズムだけというか。そう、リズムなんだよ。ジャズギターに大事なのは。メロディーじゃなくてリズム。」
 想起した大学時代への思慕からか、あの人は心なしか饒舌になった。棚に並ぶCDを眺める彼の表情は、懐かしさ以上にジャズへの熱を感じた。店内は私たちの会話がどこからでも聞けてしまいそうなくらいの狭さだったが、品ぞろえにいたってはその良さが却って店内の動線を圧迫する程に良かった。彼は続けた。
「ギターを弾いてたって言うと、よく『なんか弾いてよ』って言ってアコギ持ってこられたりするんだけど、弾いても微妙な空気になるの。本当に参るんだよね。ジャズではギターって地味だから、単純に自分の弾いてたパートを弾くと何の曲か分かってもらえない時があるんだ。」
 私はこの話の半分も分からなかったと思う。音楽を聴くのは好きだが、実践への関心はほとんどないのだ。でもそれで構わないと思った。
「お客さん、かつてはプレイヤー側でしたか。」
 奥から、店主と思しき男が出てきた。50代半ばくらいの、白髪混じりの感じのいい中年だ。私たちの会話を聞いていたのだろう。
「ええ。まあ、もう10年も前の話ですが。」
「ギターは何を使っておったんだ?」
「epiphone のエンペラーって分かりますか。あれを使ってました。」
「知ってるよ。また、図体のデカいのを使ってたんだな。」
 男は、小さいながらも豪放さをうかがわせる声で笑った。
「最近会った、若い奴はフェンダーのジャズマスターを使うって言ってたな。」
「ジャズマスターは学生時代に一度試したことがあるんです。軽音楽部の同級生に借りて。でも、なんというか、シングルコイルの感じがなんか物足りなくて。」
「箱モノを使っとれば、そう感じてもしょうがないな。まあでも、フェンダーは値段も学生には手が届きやすいんだろう。」
 その一連の会話の間、あの人の表情はいつもより若く見えた。こんな彼の顔を見るのは初めてのことだった。その時、私はもしかしたら今自分は大学生の頃の彼を見ているのかもしれないと思ったほどだ。
「まあ、店の中のものはどれでも試聴もできるから、ゆっくりしていきなさい。」
 話によれば、この店に崩れんばかりにあるCDはどれもこの店主のコレクションだという。
 音楽談義に没頭するあまり私を放置してしまったことを、あの人は表情で詫びた。均整の取れたその顔を少しだけ歪ませたその表情が、とても愛しかった。恋愛において顔は確かに重要だ。人は顔の造形の美しさよりもその表情に恋をするのだから。
 彼が、何枚かのCDを手に取って、先の店主に試聴を頼んだ。彼の手にはCharles MingusのPithecanthropus Erectusのサイケデリックなデザインのジャケットがあった。店主は、彼からCDを受け取ると彼のリクエストをオーディオにセットした。
「昔、これをバンド仲間とやろうってなったんだけど、難しくてやめちゃったんだ。楽器以外の音をどうするかで悩んだんですよ。ホイッスルの音とか。そもそも、トランペット担当のメンバーは、『あのクラクションみたいな音どうやって出すんだよ!?』って投げ出しちゃって。結局頓挫したんだ。」
 店内に、少し粗削りにも見える怪しいメロディーが立ち込める煙のように充満する。秩序のある典型的なジャズかと思いきや、突然、何か吸引力の強い中心に吸い込まれていくような混沌を音が構成し始めた。
「私、これあまり好きじゃないわ。」
「そうかい。どうして?」
「だって、なんだか怒っているみたいなんだもの。」
 彼はそう言って、店主に音楽を止めるように合図した。音楽が止まる。この場に、そして音楽に浸るあの人の精神に水を差してしまったかもしれない。急に怖くなった。でも、彼も店主も、不快感を見せることはなかった。店主に至っては、目を見開いて驚いているようにも見えた。
「Mingusが怒っているように聞こえる、ですか。それはそうかもしれませんね。」
 店主は一人で私の感想に感心している様子だったが、私には何が彼の驚きを誘ったのかが分からなかった。彼はすぐに愉快になって言った。
「彼の音楽が怒っているように聞こえたのは、偶然ではないかもしれません。Mingusの音楽に怒りが滲んでいるというのは、あながち的外れな感想ではないでしょう。」
 私はきょとんとして、助けを求めるよういあの人の方を見たが、彼もまた微笑みを返すだけだった。
 彼は結局、MingusのCDを購入した。それと一緒にBill EvansのAutumn Leavesを私に買ってくれた。彼曰く「こいつは怒ってないから大丈夫だよ。」とのことだった。
 店を出ると、12月の夜の容赦ない寒さが一気に襲ってきた。季節感のないプレゼントだったけど、文句なんてあるわけがなかった。

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