見出し画像

【連載小説】『晴子』27

 3年生のスタートに当たるオリエンテーリングが始まった。学年のはじめに行うオリエンテーションは、年に1回その学年の学部生がほとんど全員集まる珍しい機会だ。そこにはなぜか、井川の姿が見られなかった。あの秋の合コン以来、井川とほとんど話していないことに気付いた。学内ですれ違うことはあるけど、その度にお互いに目を合わせて短い言葉にならない挨拶を交わす程度だ。大概いつも、井川の方は誰か他のやつらと一緒にいるところで出くわすので、そう長く会話を交わすことはないのだ。
 短い学部長の話が終わった。高校までは学校の長と呼ばれるポジションの人間は、気合を入れて長ったらしい話を空回りさせるのに、大学では長々と話をするのを好む人はそんなにいない。大学の気に入っている点を挙げるとしたら、俺は真っ先にこれを上げると思う。
 学生課や学部運営室の代表からの話も終えて、オリエンテーションは予定よりもはるかに早く終わった。
 スマホを見ると、島田から連絡が来ていた。

 久々にお昼、一緒にどうですか?

 短いラインが入っていた。島田との関係は、今や何とか修復しつつあった。いや、そもそも修復というほど関係はこじれていなかったのだ。
 新学期を迎える前、といっても2月の中頃だが、バイト終わりに島田と食事に行ったのだ。他のバイトの面子に冷やかされるのも面倒なので、一旦バイト先では別々に解散して、改めて駅で待ち合わせした。
「ドラマとかで見る社内不倫みたいで、ドキドキしました。」
 という島田の冗談に俺は安心した。それに、島田も俺が彼女を食事に連れてきた理由を何となく察していた。
「あの、なんとも思ってないですから。あの夜のこと。」
 島田の方から切り出されて、俺は面食らってしまった。
「あの夜の事ですよね。あの、気にしてないですよ。私は。あの時の竹下さんに下心があったなんて思ってないですし。私も色々と混乱していたのは確かですけど。そこを竹下さんに付け込まれたなんて思ってないですし。第一、あの夜は、私も色々変になってましたもんね。」
 俺は島田に先を越されたような気になって、彼女が言い終わるのを待って急いで口を開いた。
「まあその、まさにそのことなんだけど。あの夜は、ほんとごめんね。俺もイライラしてて。」
「見てれば分かりますよ。井川さん蹴っ飛ばしちゃうし。竹下さんと井川さんって、すごく仲良しだと思ってたから、本当にびっくりしちゃいました。」
「いや、本当にごめんね。」
 島田に色々と見透かされていたのかと驚いたが、考えてみればそれもそうだ。人を蹴飛ばしている奴を見て、上機嫌だと思う方がおかしい。
「でも、あれ見て私もちょっとスッキリしました。あの日の井川さん、なんというか、最低だったもん。」
 あまりにハッキリした言葉が自分の口から出たことに、島田は自分でも驚いたように口を手で隠す仕草をした。その姿が、なんとなくおかしくて俺は笑った。つられて島田も笑った。
「そうだよな。あいつ、最低だったな。」
 店員が料理を運んできて、話が一部中断された。店員は俺たちの笑いの余韻を感じ取ったのか、何か愉快な会話をしていたのだろうと勘違いしたような微笑みで去っていった。
 とりあえず、あの夜のことで俺たちはもう気まずい思いをする必要はないし、お互い無用な気遣いをする必要はない、ということが確かめられた。また、以前の、ただの先輩と後輩に戻れる。俺はひとまず安心できた。
 食事もある程度進んだ時、島田の方からある話を振られた。
「そういえば、誰に電話してたんですか?」
「電話?」
「あの夜です。だれかと電話してませんでしたか?竹下さん。」
 そうだ。すっかり忘れていた。ほんの一瞬、もしかしたらそれよりも前から、俺はあの女に電話する姿を彼女に晒していたのだ。
「ああ、あれは。あれはね…、ええと、なんだったかな?」
 惚けたふりをしてやり過ごそうと思ったが、島田は面白おかしく追及してきた。
「もしかして、彼女さんですか?」
 どうしてそうなる?と言われたが、知られたくない電話の相手は、大学生の場合たいていは恋人になるのだろうか。
「いや、そんなんじゃないよ。」
 俺はすぐに否定した。
「でも、私が声掛けたら慌てて切りましたよね?やっぱり、私といるの、マズかったですか?」
 島田の不安がどんどん不要な方向に膨らんでいったのでマズい。いっそのこと、晴子とのことを、誰かに正直に話してしまいたい気持ちもないことはないのだが、島田に話しところでどうにもならない。どうにかして適当なごまかしを考えなければいけなかった。
「違うよ。あ、そうだ。思い出した。無言電話だよ」
「無言電話?」
「うん、なんかあの時、無言電話がかかってきてさ。何にも言わないから、適当に切っちゃったんだよ。」
 島田は上目遣いでニヤついて納得がいかない表情ではなかったが、一旦引き下がってくれた。
「じゃあ、そういうことにしておきます。」
 言えるわけない。本当は自分の方から無言電話をかけていることなんて。
 大体あの女、この前電話をかけた時、自分の本名を言ってきやがった。おまけに自分の恋人の話までしていた。まあ、他人の身の上話なんて基本的に興味なんてないが、恋人が自分の本名を知らないと知っていた。自分の名前が嫌いだから、恋人にその名前で呼ばれたくないとかなんとか言っていたが、本当かどうかは疑わしい。
 偽名で恋愛をするということは、ワケアリだと思うが、どんなワケなのかは分からない。でも、場合によってはメチャクチャ面白そうだ。ましてや、恋人は偽名だということは既に知っているというのだから、尚更事情は複雑そうだ。
 別に、だからどうしようとは思わない。介入して何かしてやろうとも思わない。でも…。
「竹下さん?」
「え?ああ、何?」
「どうしたんですか?そんなにニヤニヤして。」
 もしかすると、かなりゾクゾクする話を聞けるかもしれない。
「ううん。なんでもない。なんでもないよ。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?