見出し画像

【連載短編】『白狐』12

「吉田さん」
 トイレを出てすぐ、後ろから声をかけられた。
 振り返る前に、それが八尾君の声だと分かった。
「びっくりした」
 びっくりしたのは事実だった。彼は学生時代、私を下の名前で呼んでいたからだ。
「ごめんごめん」
 どこか照れ臭そうに笑う彼の身元には、遠くから見た時には気付かなかった細かい皺があった。近くで見ると、彼も着実に年齢を重ねているのが分かった。
 しばらく、沈黙があった。多分、お互いに沈黙の理由は分かっていた。どこか照れ臭くもあり、どことなく後ろめたいような、そしてどこまでもデリケートな空気。
 そういうものなのだろうか。学生時代のかつての恋人と久しぶりに出会うというのは、こんなにぎこちなくなってしまうものなのだろうか。
「久しぶりだね」
 彼の方からこの沈黙を破った。まるで、それがある種のマナーでもあるかのように。
「元気そうやね」
「うん」
 会話はなかなかスムーズにいってくれない。
「八尾君、大人気やね」
 今度は私から。何となくフェアにしたくて言った。
「そんなことないよ」
「初めて来たんやろ? まあ、しょうがないんちゃう?」
 私たちは、誰もいなくなった受付の近くに立ったまま、何となく会場の中に入れないでいた。会場の方からは、賑やかな声が聞こえてくる。
「懐かしいな。20年ぶりくらいだもんな」
 独り言のように彼が言う。
「そうね」
 彼が視線を下に落とした。
「結婚したんや」
「そう」
「まあ、そりゃそうか」
「息子も一人おるんよ」
「そうなん? いくつ?」
「いま高2。私たちの後輩になったんよ」
 彼は驚いた顔をした。
「時の流れは恐ろしいな」
 思ってもないことを言ったのは何となく分かった。彼は適切な言葉が見つからない時、独特の視線の動かし方をする。付き合っていた時から変わっていない癖。
「八尾君は? 結婚したって聞いたよ」
「うん。俺は遅かったけどね。8年前に結婚して、娘が今年小学校にあがるんだ」
「そうなんや」
「女の子のことなんてよう分からんけん。大変よ。奥さんに頼りっぱなしよ」
 ほとほと困り果てた、と言わんばかりに眉をハの字にして見せた。
 変わらないな。そう思った。細かい癖も、表情の動かし方も、声も、何も変わらない。どうしてこんなにも変わらずにいれるのだろう。彼が男だからだろうか。私には分からなかった。
 彼のその変わらなさが、箱のような事実に血を通わせ始めていた。ただの無味無臭の事実が、今を侵食する思い出に変わり始めていた。
「今日、息子がね」
 私は話し始めていた。ほとんど意識していなかった。
 八尾君は、話題の急転に驚く素振りもなく、穏やかに話を聞いていた。
「帰りが遅くなるって言っとったん。どこに行ったんかは知らんけど、彼女も一緒らしいんよ」
「そうなんや」
「どこに行ったんやろね」
 そうは言ったものの、もう私は彼らの行先を確信していた。彼も同じく察したのが分かった。
「俺らも行ったな。白狐探しに」
「そうね」
 そこから私は急速に過去を想起した。
 私たちが白狐を探しに行ったあの夜は、冬の寒さが肌に刺さるようで、田舎らしい星の綺麗な新月の夜空だった。
 探しに行こうと誘ったのは、私の方だった。私は彼の左腕を掴みながら(思い出した。彼は利き手を封じられることを極端に嫌がった)階段を上がって行った。
「なあ。やっぱりやめん?」
 八尾君は階段を登りながら、ずっと乗り気ではなかった。多分、その神社に来る前から彼は乗り気ではなく、何かと私を引き止めようとした。
 それでも私は押し通して、彼を連れて神社の階段を上がって行った。若い時分で夜中に外に出て恋人と一緒にいるということに、何となく高揚感を抱いていたのかもしれない。
「なあ。白狐見れても、ほんまに永遠に結ばれるか分からんで?」
白狐の噂については、私も半信半疑だった。私も若かったとは言え高校生だったから、そんな迷信めいたもので自分たちの将来を占うことの馬鹿馬鹿しさを理解できたし、学生恋愛が結婚というものに至ることの困難さも分かっていた。でも、どこかその馬鹿馬鹿しさや無邪気さにしがみついていたいと思っていたのも確かだった。
「ほんまに永遠に結ばれるか分からんで?」という彼の言葉は、当時の私の中の半分を占めた疑惑を直接言い表すものだった。でも、もう半分を占めた信念、というか願望がそれを跳ね返し続けた。
階段を登りきるまであと数段といったところで、八尾君は足を止めた。私は、彼の腕を引っ張って登ろうとしたが、彼は頑なに拒んだ。
「なあ。やっぱりやめようや」
 彼は俯いたままだった。
「そりゃ、君のことは好きや。けど、永遠なんて。俺、やっぱ怖いわ」
 私たちは、階段を降りて二人で家路についた。私の家に着くまで、私たちはずっと黙ったままだった。
「結局、俺たちは狐を探す前に帰っちゃったな」
 八尾君は遠い目をしていた。目の前を何人かの同級生がこちらに意味深な視線を向けながら通り過ぎていく。
「八尾君がやめようって言いよったけん」
「そうやったな」
 八尾君はなんとも言えないといった顔になった。
「別に責めてるわけちゃうよ」
「なんか、ごめんな。あの時は」
 彼は白髪交じりの頭の後ろを恥ずかしそうに掻いた。
「やっぱり、怖かってん。永遠の愛とか、結婚とか、高校生には手に負えんやろ」
 今になれば、彼の釈明はもっともだと分かる。
「でも、たまに俺も考えるよ。例えばあのまま、白狐が見れて、本当に俺たちが結ばれてたりしたらって」
 彼は続ける。
「確かにあの時、君も俺も漠然と進路が決まってて、何となく一生は続かんやろうなって思ってた。君もそうやろ? だから、あの時、白狐を見てもしょうがないような気がしてたんよ。でも、もしかしたらって思ってもいた。もしかしたら、進路が違っても続くかもしれん。白狐さえ見ればって。でも、それもそれですごい怖いなとも思ったけん」
 八尾君は、またあの夜と同じように俯いた。
「私も同じ。それに、八尾君は正しかったよ」
 慰めるわけでもなく、それは限りなくニュートラルな事実だった。
「正直、どう思ってた? やっぱり、意気地なしと思った。」
「そうやね。そういうことも思ったかもしれんけど。でも、私はずっとこの町におるんやろなとも思ってたから。八尾君が進学でこの町を出ていきたいって知ってから、やっぱりずっと続くとは思っとらんかったよ。実際、その通りになって、私もずっとこの町にいて、あなたは私の知らんどっか別の街を転々として。いつの間にかお互い別の人と結婚して。何となく、ずっとこうなる気はしてたかもしれん。ううん。きっとしてた。そんな気がしてたんよ。白狐とか関係なく、きっと同じような結果になっとったんよ」
「そうやな。きっとどうなっとっても、同じように今日こうして同窓会で話してたやろな。元恋人として」
 私たちはお互いに小さく笑った。
過去の私たちへの微笑ましさが湧き上がってきた。まだ若くて宙ぶらりんだった私たちの幼さと生意気な悟りが、今となっては微笑ましく愛おしいと思った。
「結局のところ、臆病だったのね。あの時の私たちは」
「そうだね。でも、大人になるってきっとそういうことなんだよ。」
 八尾君はさっぱりとして笑った。その笑顔を見て、私は少し気恥ずかしくなった。それは思い出の中から引っ張り出された感情だった。
「ええんよ。おかげで私たちは今、こうやって幸せに暮らしてるんやから」
 私は照れ隠しをするように、あえてあっけらかんとした。
「そうやな。確かに。俺たちは今幸せや」
 ——そう。私たちは今、確かに幸せだ。
 その言葉は、かつての私たちに向けた、「さよなら」の代わりだった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?