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【連載小説】『晴子』14

 寒くなったわけではないが、日中でも汗をかくことがすっかりなくなった。風が乾いていくのを日に日に感じる私の肌に今、窓から差し込んだ和らいだ日差しが落ちている。暖色の照明が落ち着いている喫茶店で、あの人を待っている。
 秋の休日だが、それは私にとってそうなのであって、街やあの人にとっては平日だ。外を見ると、通りの行く人の顔は仕事中の顔で、街全体が緊張感に満ちている。まだ昼頃だから、当たり前と言えば当たり前なのだが。
 今こうしてあの人を待つ私が、明確な外部に囲まれているように感じるのは、外を歩く人によってというより、店内にいる私以外の客によってだ。50代くらいの2人組の女性客、余生に浸るような余裕に満ちた老夫婦、テーブルでパソコンを開いている学生風の女の子。昼休憩中と見られるOL二人組が、たった今会計を済ませて店を出ていこうとしているところだ。
 今のこの喫茶店で、孤独の匂いがするのは私だけだ。みんな、誰かと一緒にいるか、このあとに出会う誰かの匂いがする。この場で私が一番、この瞬間の前後を推測することが難しいと思う。仕事着でもない、注文はコーヒーだけで昼食を急ぐ様子もない、さらに結婚指輪もしていないから、ここでのんびりしていられるだけの暇をどのように手に入れているのかも、端から見れば分からないだろう。していることを言えば文庫本を読んでいて、時々思い出したように外を眺めるだけ。多分この中で、私が一番いろいろと予測不可能な人間だろう。
 でも、そんな私でもここでは健全な無関心を周囲から享受できる。それが心地良かった。名前とか、あの人のこととか、放っておいてほしいことがたくさんある私には、ついついこういう場に吸い寄せられてしまう。無意識にも都会での生活を選んだのは、こういう理由があったのかもしれない。
 目の前にあの人が立っていることにすぐには気付けなかった。というか、目の前に立っている人があの人だと気付くのに時間がかかって、不自然な間が生まれてしまった。瞬間、店内に流れていたタイトルの分からないボサノヴァがあの人の身体から浸み出しているように感じたのは、彼の顔が少し疲れて見えたからだ。
「ごめん、待った?」
 そう言って、あの人は椅子に座り込んだが、その動作が何かを庇うようで緩慢だった。
「どうしたの?」
 私の質問に答えたのは、あの人が席に着くのとほぼ同時に注文をとりにきた店員に彼がコーヒーを頼んだあとのことだった。
「昨日、子どもの運動会だったんだ。」
 椅子に腰を深く腰掛けて、ゆっくり息を吐き出して続ける。
「保護者参加の徒競走と綱引きに出たんだけどさ。やっぱダメだね。しばらく運動してないとすぐにガタがくる。もう全身筋肉痛だよ。」
 あの人の顔には、幸福な苦笑いが滲んでいる。そう、あの人は幸福なのだ。私と一緒にいる時も、家族と過ごす週末も、同じくらい幸せなのだ。
「でも、筋肉痛が翌日にくるのは、まだよかったんじゃない。」
「本当そうだよ。まだまだ若いね。俺は。」
 説得力はないかもしれないけど、彼が家族と過ごす時の幸せを、私は奪おうと思ったことはない。子どもたちや妻から、あの人を奪おうと計らっているわけでもない。ただ、あの人が家族とともに築き上げる幸せとは別の幸せが、私との間にあるというだけなのだ。
「もう小学生になったんだっけ?」
「上の子がもう小学2年生。」
「もうそんなになったの。」
 初めてあの人の子どもの姿を見たのは、出会ってすぐの頃だった。あの人の家族に直接会ったこともないし、見たこともないが、写真を見せてもらったことがある。女の子が二人で、当時は上の子が4歳で、次女が生まれたばかりだった。私が見せてもらった写真には、前髪をパッツンにした可愛らしい姉が、ベビーベッドに寝転がる妹を見守る姿が映し出されていた。
 写真を見せてくれた時、レストランで食事をしていた。あの人は、その子どもの写真を私に見せながら、頬が今にも溶け落ちそうな表情で幸せの限りを表現していた。あの人は子煩悩で、本当に娘たちを愛しているみたいだった。
 子どもの一年と私たち大人の一年は、本当に密度が違うと思い知らされる。子どもの1年間の変化は、大人のそれに対して著しい。彼の子どもがもう小学生になったということを聞くと、自分の変化のなさにひどく置いてけぼりをくらった気になる。いつもそれをそばで見守る彼は、また私とは違った時間感覚で子どもの成長を日々見届けているのだろう。
「会ってみたい?」
 あの人が聞いてきた。
「ううん。」
 すぐに否定した理由は、そのことで私の、ひいてはあの人の望まないことが起こる可能性がすぐに懸念として挙がったからだ。私は、あの人から何かを与えられることはよくても、彼から何かを奪いたくはなかった。
「でも、写真は見たいかも。大きくなったあの子たちの写真。」
 だって、あの人の娘たちは本当に可愛いのだ。

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