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【連載小説】『晴子』32

 朝から雨が止まなかった。
 傘を持って短い髪が湿気で少しベタつくのを気にしながら、私は立ち止まって自分の前を通り過ぎていく人の塊をいくつもやり過ごしていた。昼時の駅は、出勤時や帰宅ラッシュ時の帯のように絶え間ない人の混雑はなく、電車が止まる度にひと塊の人がホームから上がってくる。
 今年の梅雨は、例年より早くきて、長く続くそうだ。7月も終わりに差し掛かろうというのに、梅雨明けはまだまだ先みたいだ。
 キャリーケースを引いたあの人の姿がこちらに向かってくる。私を見つけても、歩調も表情も変えなかった。見惚れるほど真っすぐに、私の元に向かってくる。
 彼が歩みを止めても、私たちはしばらく黙って向かい合っていた。さっき到着した電車から降りてきた客が、一団になって改札から出てくる。
 あの人が、先に頬を緩めた。
「怖い顔してるよ。」
「嘘よ。」
「そう、嘘だよ。」
 私たちは、お互いに何を話せばいいのか分からなくなっていた。このやりとりも、明らかに無為なものとお互い分かっている。だけど、私にとってはありがたかった。何から話しても、不正解な気がしていた私にとっては。
「家族はどうしてるの?」
「妻も仕事があるからね。しばらくはこっちに残って、俺だけ向こうに行くんだ。美夜だけでも僕が預かろうと思ったけど、どうせ2か月くらいのことだし、別にいいんじゃないかって、妻がね。」
「そう。」
 これ以上は続けられそうになかった。今は多分、どんな話題もすぐに行き詰まってしまう。いつも通りがどんなものだったのかも思い出せない。また、お互いに黙ってしまった。
「あのね。」
 ようやく、私は口を開くことができた。
「今日は、あなたと話したいことがあって。」
 あの人はゆっくりと頷き、黙って私の言葉を待っていた。まるで、無限に時間があるかのような、ゆったりとした振る舞いだった。
「私の名前のこと。私のこの名前、麻美っていう名前を、どうすればいいのか。あなたはどうしたいのか。そんなこと。話したかったの。」
 あの人が人の雑踏や駅のアナウンス、電車の音などが雑多な音の群れの中から、正確に私の声だけを受け取っているのが、目を見るだけで伝わった。
「私の、麻美っていう名前は、あなたにとってどんな記憶だったの?」
「それは、言葉にしたくない。」
 あの人の声は穏やかで、それでも周囲の雑音を軽々とすり抜ける。
「言葉にすると、多分取りこぼすものがでてきてしまう。そして、不完全なままその記憶はずっと忘れられなくなってしまう。」
 彼は、キャリーケースとは別に持っていた旅行鞄からティーチャーズの瓶を取り出した。
「僕たちの記憶は、麻美という名前が付いているだけさ。それこそ、僕たちの記憶に最も適した完全な名前なんだ。そしてそれは、自然に忘れられていくべきなんだ。」
 彼は、持っていた瓶を私に手渡した。
「最後のプレゼントだ。」
 あの人は照れて言った。私は笑っていた。
「ありがとう、大切に飲むわ。」
 あの人は時計をちらりと見た。
「そろそろ、行かなきゃ。」
 あの人も、ここでやっと笑った。
「ありがとう、とか言った方がいいのかしら?」
「そうだね、一応円満破局だから。」
 私たちはお互いに微笑んでいた。
「今まで、ありがとう。」
 先に言ったのは彼。
「私こそ、本当にありがとう。」
 次に私。
 電車のアナウンスが聞こえる。彼はその声に反応した。彼が乗る電車が間もなく到着するのだ。
「ねえ。最後にいい?」
 改札に向かおうとしていた彼は、私の方を振り返った。私はあの人の肩を軽く掴み寄せて彼の耳に口を近づけ、囁くように言った。
「あのね…。」
 遠くで、ホームに電車が滑り込む音が聞こえてくる。それでも私の声は、確かにあの人に届いた。
 私たちは再び向かい合うと、あの人は言った。
「どうりで、今日は君の名前を呼べなかったわけだ。」
 そう言ってあの人は微笑むと、背を向けて改札の方へ歩いて行った。


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