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【エッセイ】伏線回収と論破のエクスタシー

 他人より賢くありたい。幸いにも、このような欲求とは縁遠い人生を送ってこられた。中学校では特別勉強したわけではないが、それなりに良い成績もとれて、高校は進学校に進学して、現在は大学院の博士課程後期に在学中の僕は、他人より賢くありたいという欲求が全くなかったわけではないけど、幸いにもそれと前向きに向き合ってこられたと思う。もちろん僕は愚か者の一人ではありながらも、「この人のように賢くありたい」と思える人に囲まれて生きてこられた。これは幸いだ。
 今日いろんなメディアに触れていると、人はこんなに他人より賢くありたいと願うものなのか気付かされる。最近、伏線回収という言葉が、映画やアニメなどのコンテンツの面白さを決定づける一つの基準として考えられているように見える。どんな物語にも伏線が必要で、伏線のつながりが、そのコンテンツをその受容者が今後も受容し続けるかを決定する。
 曲がりなりにも小説を書いてみると、回収すべき伏線を物語の中に作り出すのは、それほど難しいことではない。別に物語自体に伏線がある必要はない。一番初歩的なやり方は、プロットをいじればいいだけだ。読者がそこに謎を見いだせるように、事実を開示する順番を工夫すれば、簡単に伏線は作れる。
 もう一つは、物語を作っていく途中で、本来はどうでもよかった物語前半の要素に意味を付与していくという後出しジャンケンのようなこともできないことはない。作り手側からしてみれば、伏線を作るのに大した労力は必要ないと思う。むしろ伏線がなくとも受け手を惹きつけるストーリーを捻りだす方が遥かに大変だと思う。
 それでも、どうして伏線を欲するようになったのだろうか。結局、それは受け手が作品に求めるものの変化に起因するのだろう。そしてその変化は、カタルシスからエクスタシーへの移行を下敷きにしているように思う。
 ここでカタルシスとは、学術的な表現というよりは、もっと広く一般的な言葉として用いている。言ってみれば、自分の心の中にある違和感や不快感を、言葉にして発することで解消させる試みのことだ。愚痴や悩み事があるときに、それを言葉にして誰かに話すだけで、問題の根本的解決には至らなくとも心がラクになるときがあるだろう。その時に覚えるのがカタルシスだ。つまり、記号化、言語化されない自己の内面を何かしらの形で出力することで得られる前向きな効果のことを指す、くらいまで言えば十分だろうか。
 映画や小説、音楽などのコンテンツの中にも、カタルシスを期待できるものがあるだろう。例えば、行き場のない漠然としたフラストレーションを背負いながら都会で暮らす者の孤独(映画『タクシードライバー』とか)を描いたもの。あるいは資本主義社会の中で疎外されたエリート労働者が加速させる歪み(映画『ファイトクラブ』とか)を表現したもの。映画を例に出したが、小説や音楽にも少なからずカタルシスを期待できるものはあり、そうしたコンテンツは受け手の記号化、言語化されざる内面を巧みに代弁するものとして機能する。
 コンテンツによっておこるカタルシスは、共感とは違う意味を持つ。共感は、他者の主張に対する同意のことで、それ以上の意味はない。カタルシスは共感を含むものもあるが、他者による自己の代弁そのものに意味のあるものだ。共感の場合は、コンテンツが自己の内面を代弁するものでなくても、受け手自身がそれまで自己の内面になかったものを新しい主張として受け取り、同調することもできるため、カタルシスとは必ずしも関わりを持つわけではない。
 では、そこからエクスタシーに移るとはどういうことか。エクスタシーはここでは比喩的な表現として、欲求の充足が生む効果としておこう。伏線回収の物語が、コンテンツ受容者のどんな欲求を刺激し充足させるのか。端的に言えばそれは、受容者の知的優位性誇示への欲求である。つまり、「他人より賢くありたい、そしてそれを知らしめたい」という欲求だ。
 知的優位性誇示への欲求と、とあるインフルエンサーに特有のコミュケーションが論破としてコンテンツ化されているのは、おそらく偶然ではないのだろうと思う。そうしたコンテンツを消費する中で、それを受容する者は自ら知的優位を誇示したい欲求を充足させている。
 インフルエンサーや芸能人が論破する様子が人気を博するのは、別にそこで社会問題の根本的解決策の模索を目的とした議論が展開されているからではない。単純に、売れるからなのだ。そしてなぜ論破は売れるか。それは、そうしたコンテンツ化された論破が、人々の知的優位性誇示への欲求を充足させ、エクスタシーへと至らせてくれるからだ(場合によって、そのコンテンツを受容しながら、どこの誰とも知らない他の観客と場外乱闘に興じることもできる)。
 伏線回収の物語も、その手の欲求を充足させるのに役立っている。伏線を見抜き、物語が進む中でそれが回収されるのを見届けることは、自らの賢さの証明になる。あるいは、その受容において賢さが求められるコンテンツでなければ満足しない自分というステータスを築き上げる。伏線を見誤っていたことが分かれば、独りよがりの考察(実際には考察でさえない場合がほとんどだが)か、コンテンツ自体の非難へと漕ぎだす。
 伏線回収の物語においては、カタルシスは問題にならない。もはや物語の内容など問題ではなく、伏線を回収できるか、そして自身が受容者としてそれを的確に見抜けているか、そしてそのことが証明されるか否かが問題になる。要は、エクスタシーに至れるかが問題になるし、それしか問題にならない。
 知的優位性誇示への欲求の充足させることを志向する風潮の中で、カタルシスの過程で語られていることが個人的なことへと矮小化され、それが普遍的な問題へと発展していく可能性をいたずらに捨象する傾向も生まれている。こうして受容者の求めるものは、他者の口を借りた自己開示欲求の充足によるカタルシスから、知的優位性誇示への欲求が充足されることによるエクスタシーへと、変化していったのだろう。
 別に伏線回収の物語が人気を博すること自体に問題があるわけではない。結局それは、コンテンツ受容者のニーズの変化として説明されるだけだ。問題は、そうしたコンテンツを受容することと自らの知的優位との結びつきについて錯覚を誘発しかねないことだ。
 留意しなければならないのは、伏線回収の物語において、たとえそれが秀逸なものであっても、知的優位性は受容者を引き付ける工夫として伏線を施したコンテンツ制作者の側にあるのであって、それを受容する側にあるのではないということだ。そして、受容者側である者は(僕も含めて)、自らが知的に優位な立場にあると錯覚しがちなのだ。しかしそれは、エクスタシーの充足以上のものではなく、コンテンツの受容によって実際に自身が知的に優位になれたかどうかとは無関係なのだ。
 今、エクスタシーを求めてしまう僕たちの課題は、知的優位性誇示への欲求と、その充足にともなうエクスタシーとどう向き合っていくのかということなのだろう。


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