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【連載小説】『晴子』28

 5月に入って、ようやくコートをしまった。
 街全体に緑が息吹くような季節になった。日も長く眩しい。
「転勤になるんだ。こんな中途半端な時期に。」
 喫茶店の野外テラスに座った私たちは、向かい合って座り、お互いにコーヒーを飲んでいた。葉擦れの音が潤っていた。
「どこに行くの?」
 聞いた私の言葉には極めて日常的なニュアンスが残っていて、つまりこの転勤が私たちのこれまでの生活を劇的に変えることは恐らくないという含みがあった。それは、あの人の表情が変化を受け入れ、大きな決断をした人間の表情にしてはあまりにも穏やかだったからでもある。
「それは、教えられない。」
「どうして?」
「君が追いかけてきそうだし、僕もそうしてしまいそうだから。」
「そうするし、それがどうしていけないの?」
「別れよう。」
 一瞬、思考も声も止まったのは、質問の答えではなく、その先に用意されていたであろう結論が先に突き出されたからだ。最近、私の周りで恋人に別れを切り出した唯一の人である菖蒲ちゃんとは、随分と違うものだ。菖蒲ちゃんみたいに気難しい顔をしてみせたあと涙ぐんでくれたら、私の方でも少し準備ができたものをと思ったが、考えてみるとあの人が菖蒲ちゃんみたいに泣きじゃくる様を想像することは難しい。
「どうして?」
 彼に別れを急に言い渡されたことよりも、この急な別れ話を前にして意外にも冷静でいられる自分の方が私には驚きだった。いたって冷静な声で、冷静に問いかけた。
「私たちは別れたいのかしら?それとも、別れなければいけないの?」
「別れなければいけない、だと思う。」
 私は彼の言葉を待った。
「それは、君を愛していないとか、そういうことじゃないんだ。ただ、君にも分かるだろう?これはいつか終わるものなんだ。終わらなければ不自然なんだ。」
 私に、彼の言葉がすんなりと入ってくる。ちょっと残酷でもあった。
「これは君を拒絶してるんじゃない。単純に、至って自然にこの関係が終わるだけだ。少なくとも、実質的な意味では。」
 私も分かっていたことではある。彼には妻も子どももいるわけだし、世間的に見ればこれは少なくとも健全な関係とは言い難い。実質的にはこの関係は解消されるべきものであるのは、別の理由からではあるが私たち当事者としても違和感のない感覚だし、世間の感覚とも一致しないまでも衝突はしない。
 別の理由として適切に当てはまるのは、あの人と私の関係が継続することの不自然さの方だった。それは、普通の恋人同士の間にはない、私たちの間でだけ交わされた特殊な儀式故だった。
「私たちの関係が終わらないことが不自然なのは、この関係自体の中になにか自滅的なものがあるから、ということかしら?」
 彼は、たっぷりと考え込んでから答えた。その間にコーヒーを一口啜って、ソーサーに出来る限り音を立てないようにゆっくりと置ける程に。
「たいていの関係には、それ自体の中に自滅的要素を含んでいるものだよ。友人関係にも、仕事関係にも。でも、僕たちの場合はその要素が常に明確に目の前にあったように思う。」
「私の名前のこととか?」
 間を入れずに私は返した。あの人は急ぐ様子もなく頷いた。
「僕は自分を君の恋人としてよりも、君の名付け親のように思っていたような気がするんだ。」
 あの人は可能な限り誠実であろうとするのに不可避な量の時間を使って、私の言葉に一つひとつ返答をしようとしているように見えた。
「私の名前を付けたこと、後悔してる?」
「ううん。むしろ、よかったと思ってるさ。」
 あの人は続ける。
「人間同士の関係では多かれ少なかれ、この自滅的な何かに抗うことは不自然になると思うんだ。そういうものを受け入れて、自然に終わった方がいいと思うんだ。麻美は君の本名じゃない。もちろん僕はそれで構わないけど、君はそれでいいとは思えない。この関係は、もっと言えば麻美という名前は、いつか終わらなければいけないものなんだ。麻美という名前が、君の本当の名前を侵食する前に。」
 侵食という言葉が、麻美という名前が私にとって決してリアリティのあるものではなかったということを思い出させた。麻美という名前に対して私が持つ諸々のフィット感は、本来私のものではないし、そう見えるとすればそれは疑似的なものに過ぎない。
「終わらせるには、外からやってくるどうしようもない機会が必要なんだよ。そして、僕たちの場合、この機会をそのどうしようもない機会にしてしまわないといけないと思うんだ。」
「それが自然だから?」
「そう。それがすごく自然だから。」
 私たちはそこからしばらく沈黙した。沈黙の意味は彼の意見への同意ではなかった。同意は必要でさえなかった。彼と私の間にあるのは、曖昧でほとんど消えそうな境界だからだ。さっきまでの私の問い掛けは全て確認で、彼の考えていることに改めて納得する必要などなかった。
 私たちの関係は「名付けた者」と「名付けられた者」という一種の疑似的な役割の上に成り立っていた。それは疑似的であるが故に、あるいは私たちの場合にはありえそうにないことだが、その疑似的なものによるリアリティの侵食を防ぐために、この関係の当事者はいつもその終わりを見据えていた。そうしなければ不自然なのだ。そして自然か不自然かに、私たちがどうしたいかなど関係ないのだ。
「そして、それが今なのね?」
 彼は黙ってゆっくり頷いた。
「今だね。これは僕の直感だけど。」
 私たちは別れることを決めた。彼の直感はよく当たるのだ。

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