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【連載小説】『晴子』20

 Sonic Youthは、80年代のオルタナロックシーンを語るにおいて、やはり欠かすことはできない。彼らの登場はもはや事件と言っていい。ステージではパンク的精神を彷彿させるスタイルを貫く一方、LSDなどのドラッグによる幻覚の連想させるサイケデリックな世界観を体現している。サーストン・ムーアの過剰ともいえる歪みをのせたジャズマスターのサウンドは、シューゲイザーからの影響をうかがわせるが、シューゲイザーの重厚さを削ることで曲全体をポップな音色に仕立て上げている。彼らの音楽はこうした多様なジャンルをクロスオーバーさせる形で継承しながらも、そのどれでもないという独自に築き上げられた地位を占めている。80年代のオルタナティブロックの波が過ぎ去って40年近くが経過しようとしている今、彼らの音楽が再評価される潮流の裏には何があるのか。

 ここまでを読んで、俺は手にしていた音楽雑誌を閉じ、陳列棚に戻した。
 ギターをしばらく弾いていない。高校生の時に、サーストン・ムーアに憧れて、バレないようにバイト(高校では禁止されていたのだ)で金を貯めて買ったジャズマスターは、大学進学とともに俺の一人暮らしの部屋に持ってきた。高校の時はあれだけ熱中していたが、大学に入って何となく弾かなくなっていった。
 別に、練習の時間が確保できないというほど忙しい訳ではない。授業が詰まっているわけでもないし、バイトに追われなければいけないほど金欠でもない(そうであればあの日のホテル代を俺が全額もつことなんてできるわけがない)。
 一番大きいのは、環境だ。軽音サークルにでも入っていれば、コンスタントに練習する習慣ができていただろう。こうしたサークルに入ろうと思ったこともあった。入学当初、そうしたサークルの説明会に行ったことがあったが、40年も前の洋楽オールディーズ(もうSonic Youthがオールディーズだと!?)に興味のあるやつなんていなかった。ギターが弾けるだけでは意味がないと思った俺は、サークルに所属することはなかった。こういうサークルでは、楽器経験者は重宝されるらしく、俺を勧誘した先輩は残念がっていたが、彼とはそれ以降出くわすことはなかった。
 今日、授業のない俺は昼頃に起きて適当にカップ麺を作ってそれをダラダラと食べた。バイトまでの時間を持て余していたので、2時頃に家を出てとりあえず駅前まで来たのだ。本屋の雑誌コーナーに並ぶ表紙の中に、懐かしのサーストン・ムーアの顔を認めて立ち止まり、しばらく立ち読みをしていたが、それでも10分ももたなかった。外はすっかり冬で、空気が澄んでいる分、その中の不純物も敏感に感じ取れそうだ。
 あの夜から1か月近く経過しようとしている。あの夜以来、島田との間には何となく気まずい雰囲気が垂れ込めている。お互いに何か余計な事を意識している。大学内でもバイト先でも、必要最低限の言葉を交わすだけで、それ以外ではお互いに関わることを何となく避けている。
 早急に、特にバイト先だけでもこの感じをなんとかしなければいけない。俺は焦燥に駆られていた。このことを森彩也子に悟られたら、面倒なことになるはずだ。その前に、何とかしたい。もしかしたら、既に島田から森に話が伝わっているかもしれない。
 あの夜の不快とも快感とも言えない、怒りとも戸惑いとも言えない、いや、ある意味では何とでも言えてしまいそうな、得体の知れない感情の渦からどうにか逃げ出そうとしていた俺は、またしても同じような逃亡劇へと駆り立てられる結果となった。しかし、今度は相手が島田だ。あの夜のあの感情よりは、対峙してどうにかなりそうな相手ではある。それに、今島田と俺の間にあるものは、ある種の性的関係をもった男女にとってはありきたりなもので、かつて問題を解決した先人が比較的見つかりやすいという点においては、あの夜のあの感情よりもはるかに易しい。
 本屋を出て、次の目的地を探す。本屋では意外に時間は潰れなかった。バイトまであと2時間以上ある。
 平日の昼間、街に出ているやつは極端だ。スーツを着た社会人か、暇を持て余す人間のどちらかだ。前者と後者を分けるのは、他者と時間感覚を共有できるかどうかだ。暇を持て余すやつらは、まともなやつらと時間感覚が一致しないのだ。その中でも、俺みたいに孤独なやつは、時間以前の何かを他者と共有できないということなのだろう。
 ちらほら、学生服の男女が街に出始める。塾にでも行くのか、自分の腰あたりしかないガキが横を通り過ぎていく。そして、学生ともガキとも歩調の会わないスーツのビジネスマンは、彼らの足取りに驚いたり焦れたりしながら、思い通りに歩けないでいる。買い物帰りの中年の自転車が、歩道のない道を走る車を脅かしている。
 どこへ行くともなくふらついている中で、コンビニを見つけた。俺はコンビニに入って、煙草とコーヒーを買った。コンビニの外に出て、入口から離れたところにある柱型の灰皿の所へ行く。コーヒーを一口飲んで、煙草に火を着ける。コンビニの前ギリギリに人や車が通りすぎていく。俺の出す煙に眉をひそめていくが、そんなこと俺の知ったことではない。
 ふとスマホを見た。連絡は特に来ていない。大学の学生からの通知メールが来ていたが、俺には関係なさそうだったし、俺の興味を惹くものもなかった。LINEが何通か来ていたが、バイトが終わるまで無視することにした。やり取りのペースを相手に握られたくないし、相手のペースに支配されることは、何か自分のプライベートな部分まで握られているように感じる。
 スマホを見たついでに、島田に連絡してみようと思った。電話に出るかどうかは分からなかったが、それでも話をする意志はあること、お互いの関係を前向きに進展させていきたいという意志があることを形だけでも示す意味はある。
 電話の呼び出し音が鳴る。
 1回。俺の目の前を、自転車をよろよろと操るじいさんが通り過ぎていった。
 2回。煙草の煙を吐き出す。これ以降、再び煙を吸い込むタイミングを失う。
 3回。カラスの鳴き声を認める。しかし、さっきから鳴いてはいたようだ。
 4回。道を挟んで向こう側に、女を車道側にしてカップルが腕を組んで歩いていく。
 5回。夜の雰囲気を纏わせた女が、さっきのカップルとすれ違う。
 6回。鼻を啜った。鼻先が冷たくなっていることに気付く。
 呼び出し音が消えた。
 俺は、舌打ちをして天を仰いだ。
「出ねぇよ。」
 ため息に混じらせたその声は、真っ昼間の都会に敷き詰められた建物と建物の隙間に消えていった。

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