見出し画像

【連載短編】『白狐』1

 自転車で通学しているせいで、いつも風向きを気にして走る癖がついてしまった。自転車を漕ぐ人にとって、向かい風か追い風かは目的地に到着した時の体力の残量に大きく関わる。母親にこのとこを話すと、「若いうちからそんなこと言っててどうすんの?」と軽くあしらわれた後、自分の身体が若い頃に比べていかに老いたか、それに比べたら高校生の俺の体力がいかに有り余っていて、それがいかにありがたいことなのかについて長いスピーチを聞かされる。それでもやっぱりこの主張は譲れない。
 幸い今日は追い風だ。幸い、と言わせてくれ。冬の刺さるような空っ風を真正面から受け止めることを考えてみてくれ。
 それに、今日はリップクリームを忘れてしまった。さっきの信号で止まった時に気付いたのだが、引き返すのにはもう遅い。乾燥肌の俺にとっては、この忘れ物は致命傷だ。今日一日、唇の皮を何度となく剝くことになるだろう。
 自宅から高校までの約40分の間、基本的に俺は一人だ。たまに別の高校に進学した中学校の同級生と遭遇して途中まで一緒に行くこともあるが、それでなければ結構退屈な登下校になる。通学路の景色は基本的に両サイドに田んぼ、古びた家々、寺社、鬱蒼とした木々と雑草くらいしかない。建物はまちまちに位置している。トカイのトの字も見つけ出せない風景がずっと続いていく。
「通学路なんて飽きてなんぼだろ。どこも一緒だよ。1年あれば飽きるのに十分さ」
 昨年、東京に引っ越していった幼馴染の電話越しの声を思い出す。そういうものだろうか。でも、都会は寄り道できる場所が多いと思う。通学路に飽きても、街自体に飽きることはそうそうないと思う。
 学校が近づくにつれて、知った顔が段々目につくようになる。「おはー」「なんか超眠い」「古典の小テスト、勉強した?」色んな声の合間を縫うように、俺は自転車で通り抜けていく。
「かーみや」
 駐輪所で自転車のスタンドを立てたところで声をかけられた。同じクラスの桐田だった。
「ああ、なんや桐田か」
「なんやってなんやねん」
 桐田は高校で最初の方にできた友達だ。1年生はクラスが違ったがその頃から親交があって、2年生からは同じクラスになったのだ。いつもテンションが高く調子のいいやつで、桐田がしょんぼりしていると、余程のことがあったに違いないと周囲の人間がたちまち心配し始めるくらいだ。俺にはその原因を話してくれる桐田だが、その理由は大概大したことではない。
 大概と言ったのは、一度彼が深刻な失恋を経験したことがあったからだ。当時、一学年上の先輩に告白をした彼はあっけなく振られてしまった。
「先輩は、結局俺のことガキとしか思っとらんのや…。俺はいつ先輩に追いつけるん?俺が先輩の年になった時には、もう先輩はその年齢ちゃうねんで。先輩にとって俺はいつまでもガキなんかな?なあ、神谷。教えてくれ。俺はいつになったら先輩に追いつけるんよ?なあ、神谷?」
 そういって泣きじゃくる桐田を、俺は最後まで慰めてやったのだ。あんなに長く男の背中をさすったことは初めてだし、あれで最後にしたいとも思う。でも、高校生にとっての1年の違いは結構大きいのだ。これは俺も痛切に感じている。
「先輩」
 後ろから声をかけてきたのは、清水沙雪だった。俺より一つ下で、俺たちは今年の夏から付き合い始めた。
 付き合い始めてから、俺は高校生の一学年の大きさを痛感している。つい最近まで自分も今の彼女の年齢で、今の彼女の学年で、今の彼女と同じような単元を授業でやっていて、同じようなつまずき方をしていたはずだ。それなのに、俺にはそれが随分前のことに思える。そして、自分がびっくりするほど1年前の感覚を覚えていないのだ。
 だから、彼女と付き合っていると、意外にも驚くことが多い。こんなにも見えているものが違うかと。俺は桐田と違って、そういう意味で高校生の1年の大きさを実感したのだ。
 母親にこんなことを話したら「また生意気言って」とか言われるのかもしれない。でも、すぐに「もう今年も12月なの?」とか言って一年の速さにことある毎に驚いている大人のそれとは違って、俺たちの時間の流れはじれったいくらいくらいゆっくりなのだ。
「おはよう」
「おはようございます」
「首元が寒そうやね」
 そういったのは、いつも清水が巻いているマフラーがなかったからだ。清水はブレザーの上にカーキのPコートに袖を通し、前のボタンを開けていた。
「忘れてきたんですよ~。もう今日はこれに頼るしかありません」
 そう言って清水は両手で揉んでいたカイロを俺に見えるように軽く掲げたあと、それを首にあてて暖をとる。
「でも先輩も首元寒そうですよ?」
「俺はチャリ漕いできたから」
 実際、追い風でも自転車を40分も漕いでいたら、冬でもうっすらと汗ばんでくる。マフラーまですると意外に暑いのだ。
俺たちは昇降口の前まで来ていた。
「それより、リップクリーム忘れた方がキツい」
「じゃあ、私の使いますか?」
 清水がカバンを漁ってスティックのリップクリームを一つ取り出し、俺に差し出した。
「いや、そういうつもりで言ったわけじゃないから。いけるよ」
 清水は恥ずかしそうにしながらも、引き下がらなかった。
「ダメですよ。先輩、すぐに唇の皮剝いちゃうじゃないですか。その癖、やめた方がいいですよ。はい」
 そうしてさらにグイっと押し出されたそれを、手に取らないわけにはいかなくなった。
「私、もう一本持ってるので、気にしないで使ってください。それじゃ、また放課後」
 そう言って、彼女は自分のクラスの下駄箱の方へ足早に向かう。
 俺の気付かない内に姿を消していた桐田が、後ろから囁いてきた。
「ええでんな~。順調でんなぁ~」
彼の声と吐息に、背中が急にムズっとした。
「なんだよ!?」
「いやぁ、健気やね~、沙雪ちゃん」
「からかうなや」
「別にそんなんちゃうよ」
 俺は靴を上履きに履き替えて、先に行こうとする。桐田も追いかけてくる。
「お前は羨ましいよ、まったく」
「お前だって彼女作ればええやん」
 桐田だって別にモテないわけではないのだ。実際、俺はこいつ宛てのラブレターの配達を2回ほど頼まれたことがある。やろうと思えばできないことはないはずなのだ。
「神谷君…。それは強者の理論だよ」
 何が強者なんだか。
「そういうもんかね?」
 俺にはよくわからなくて、適当に受け流した。
 教室に入ると、もうクラスの7割くらいは教室にいる。2学期の期末試験を終えて、みんな少し浮足立っている。俺と桐田は、教室の友達といつものように適当に挨拶を交わしながら席に着いた。俺は自分の席に、桐田は俺の後ろの松井の席に座った。
「なに?」
 桐田は何か言いたげな様子だったが、しばらくじっと黙って俺を見ていた。俺は彼が話し始めるまで待った。
「大事にするんやで」
「え?」
 一瞬、何のことを言っているのか分からなかった。
「沙雪ちゃんのこと」
「ああ、分かっとるよ」
 松井がその後ろで、桐田が自分の席を空けるのを待っていた。俺はそれとなく松井の方を指さして、桐田に伝える。
「おお、悪い悪い」
 桐田は急いで席を空けて、自分の机に移動した。しばらくしてチャイムが鳴り、そこから間もなくして先生が教室に入ってくる。
「はーい、静かにしろ。ホームルーム始めるぞ」
 俺は、何となく清水から手渡されたリップクリームを手の中で弄んでいた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?