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ゴメが啼くとき(連載6)

 爺様の葬儀が終わって二日後、子供たち四人はフンコツから歩いて庶野の小学校に向かった。一里(約四キロメートル)の距離の海岸線(黄金道路)を歩くのである。
 海岸に流れ着いたコンブを拾っている人がいた。空にはゴメ(カモメ)が気持ちよさそうに舞っている。晴れ渡った太平洋の海岸には秋を思わせる空が広がっていた。
 文江は三人から少し遅れてとぼとぼと歩いていた。後ろを振り向いた登美子が、
「お前は一年生なんだってね。八歳で一年生。かわいそうにね」と蔑むように文江に言った。
「お姉ちゃん、ほんとに文江が一年生なの。この前、俺が学校を休んでいるとき、文江と父さんが学校にいったよね」と佐藤家の一番下の男の子が言った。
「ということは、お前と一緒の一年生のクラスだよ」と二番目の女の子が言った。
「俺いやだ! 文江、お前、学校さ行くの辞めな。家に帰りな」と男の子が言った。しかし、文江はグッとこらえて、それでも付いていく。
「来るなと言っただろう。帰れ!」と登美子が意地悪そうに言い放った。どんどん三人との距離が離れた。そして砂利道が山に向かったころ、ついに三人の姿が文江の視界から消えた。このまま佐藤の家に戻ろうかと思ってもみたが、自分を叱咤して、歩き出した。文江はいつも孤独だった。

 一年生担任の女先生の名を下村といった。
 ある日、一時限目の授業が終わった時、文江は下村先生から職員室に来るよう言われた。
「文江ちゃん、読み書き覚えた?」
「いや、わち、さっぱりできません」
「わち、という言い方はこれからやめようね。わたしと言える?」
「わ・た・し・・」
「そう、これからは、わたしというのよ」
「はい」と文江は返事をした。心の中で(わたし)と言ってみた。
「ちゃんと勉強しないと、大人になってから苦労するよ」と、下村先生は優しく文江に言ってくれた。その時、先生が、
「この絵本を文江ちゃんにあげるから、読んでみない」と、一冊の絵本を渡してくれた。『孝女白菊』と書かれていた。
「先生、ありがとうございます。だけどわち読めません」
「また わち、わたしでしょ、これから。勉強して読めるようになりますよ」
「はい、ありがとうございました」と文江は礼を言い、その絵本を大事そうに抱えて職員室を出て行った。
 下村先生の隣に座っている二年生担任の女先生が、
「下村先生、あの子、今フンコツの佐藤さんのところにいる子だよね」
「そう、もう八歳になるんだけど、いままで学校に行けなくてね。一年生からということで決まったらしいよ」
「聞くところによると、目黒に奉公に行っていたらしいね」
「そう、最近ご両親が離婚され、フンコツの佐藤さんに預けられたらしいのよ」
「不憫な子供だね」
「頑張り屋さんでね。小さいながら一生懸命生きている」と下村先生は同情の入り混じった表情で言った。

 文江が一年生の教室に戻ると、佐藤家の一番下の男の子の清が、
「文江、先生から何貰った?」と、その絵本を取り上げようとした。
「だめだ!」と大きな声をあげたので、教室にいる生徒が文江と清の方を一斉に見た。
「お前、その本、読めるのか?」と清がなじるのであった。文江は悔しかった。
 勉強をして一日も早く読み書きが出来るようになろうと思う文江であった。そして、その絵本を大事にカバンに仕舞った。

 一年生は午前中で授業が終わり、弁当を食べて下校する。
 校庭で遊ぶ生徒もいたが、文江は一人で、一里の道のりを歩き、フンコツに戻るのだった。
 佐藤家に帰ったら、仕事が待っている。風呂場の掃除やランプのホヤ磨き、そして洗濯だ。洗濯ものは、たらいで洗う。文江の手よりも大きな固形石鹸を使い、洗濯板でゴシゴシ洗う。だが、子供の力では、なかなか泡立たない。バケツで汲んだ水は、いまは冷たくないのだが、真冬になったら手先が痺れる位大変だと不安になるのだ。
 どう考えても洗濯は午前中にやるものだが、佐藤家の叔父嫁のシゲはなにが忙しいのか自分ではやらず、文江が学校から帰って来てからやらせるのだ。
 文江は勉強がしたかった。佐藤家の子どもたちは、のうのうと何もせず過ごしている。文江の仕事は夕方まで続き、そのあと風呂場の湯沸かしと、勉強をする暇がなかった。

 夕食が済むと、茶碗洗い。毎日がその繰り返しであった。目黒の坂本家に奉公に言っていた時とちっとも変わらない。文江は悲しくなった。
 夜、布団に入ってしまうと、すぐ朝になってしまう毎日だった。

 ただ、文江の唯一の楽しみは、下校して砂利道の黄金道路を帰ってくる道すがらの勉強だった。カバンから下村先生から貰った絵本『孝女白菊』を出し、広げて眺めるのだ。何が書いているか判らなかったが、ページを開いた絵を眺めておおよそのストーリーが理解できた。また、見晴台広場のベンチに教科書を広げて、その日勉強したことを復習するのだった。

 嵐の日は、隧道を抜けた黄金道路には、波飛沫なみしぶきが押し寄せ、小さい子供などは通ることは出来ない。庶野の学校には行けなかった。
 そういう日は、朝から夕方まで文江は、こまめに働いた。しかし、家の者からは労いの言葉すら掛けてもらえなかった。
 ただ唯一、佐藤家の婆様が文江の味方であり、理解者だった。

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