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ゴメが啼くとき(連載8)

 昭和十六年(一九四一年)といえば、日本は太平洋戦争に入り込んだ年だった。
 
 その年の冬が間近に迫ったある日、文江は、今までの疲れが溜まっていたのか、寝坊してしまった。
 いつもなら朝の五時前には起きていたが、その日に限って、朝方夢を見てしまい、六時にハッとして目が覚めた。
 既に叔父嫁のシゲは台所で朝餉の支度を終えたころだった。

 最近文江は学校には、ほとんど行っていない。
 この年(昭和十六年)の3月に公布された国民学校令で、小学校制度を廃止し、新たに初等教育機関を四月から発足した。つまり、これまでの小学校を国民学校と改めたのであった。昭和二十二年(一九四七年)まで、この制度は続いた。

 国民学校五年生のクラスで、文江だけがのけ者だった。自分よりも年下の生徒から虐められた。佐藤家でも学校でも、どこもかしこも面白くない。文江の心は徐々に暗くなっていった。いつも独りぼっち。片言のカタカナを読み書きできるくらいだった。

 文江の唯一の楽しみは、薬売りのおじさんが来た時だった。置き薬の交換にくるのだ。紙風船やトンボや紙笛が貰えた。それで遊んだ。一人で遊んだ。また、下村先生から戴いた絵本「孝女白菊」を眺めるときが唯一楽しみな時間だった。
 しかし、文江が一年生から二年生になるとき、下村先生は同じ教員の男先生と結婚して、帯広へ行ってしまった。
 文江を応援してくれる人がいなくなってしまった。佐藤の爺様の葬儀の時、母のハナが、あと一年我慢してほしい、そうしたら一緒に住もうと言ってくれたが、あれから四年の月日がたつ。
 文江は不安だった。自分の人生はこれからどこへ向かおうとしているのか。
 ある日、学校から帰ってくると、竹竿を持って隧道近くの岩場へ向かった。引き抜いた水草の根にゴカイがいっぱいついていた。それを餌にして、竿を波間に投げ入れた。するとグイと強い引きがきた。アブラコ(アイナメ)だった。それからハゴオトコやキュウリも釣れた。久々に文江は楽しい時を過ごした。
 家に戻ってさっそく文江は流しに立った。今釣ってきた魚類を水できれいに洗い、捌き始めた。叔父嫁のシゲが近寄り、
「文江、たくさん釣って来たね。晩御飯のおかずにしよう」
「はい、叔母さん。煮付けと焼き物にしたいと思うけど」
「そうしましょう。料理は文江に任せたよ」と言って、そそくさとその場を離れて、衣類の縫物の続きを始めた。

 アブラコは煮付けにした。ハゴオトコは味噌汁の中に入れた。良い出汁が出る。キュウリは焼いた。おまけにガンゼ(ウニ)も出た。
「文江、お前釣りは好きか?」と叔父さんが聞いた。
「はい、わち・・いや、わたし好きだ」
「そうかい、そしたら今度、ドンドン岩で釣ってみたらどうか」
「おじさん、わたし、あそこ嫌いだ」
「どうして?」
「だって、あそこで人が死んでいる」
「昔からあそこは、身投げをする人がいる。その人達の亡霊が釣り人を海中に引っ張り込むという噂が以前に立ってね。だけど入れ食いで魚が沢山釣れるんだが」
「おじさん、私が水死したら良いと思っているでしょ」と冗談半分で文江が言ってしまった。
「何を言ってる。俺はそういう意味で言ったんじゃない!」と大声を張り上げた。
 佐藤家の子供たちは一旦食べかけの箸を置き、じっと文江を睨んでいた。
 その場の雰囲気が変わってしまった。文江はいたたまれなくなり、「ゴットサン」といって、流しに立った。シゲが「文江、もういいの。オソマツサン」と返事をしたのみだった。

 翌日も文江は学校を休んだ。最近学校へは行っていない。叔父嫁のシゲが、
「どうして、皆と一緒に行かないの」と聞いても、文江は黙っているだけだった。
 学校に行っても、学級のみんなに虐められる。その先導は、佐藤家の一番下の男の子の清だったのだ。
 文江は考える。
 自分が学校に行かない(行けない)のは、自分に負けているからだ。学校に行くのが嫌なのだ。でも、学校に行って勉強しなければ読み書き、そろばんができない。どうしたらいいのだろうと、悩むのだった。
 

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