イタリア視察を終えて今自分が思うところの「当事者」論

最近、「かわいい」と「当事者」は似ているな~と感じます。
どちらもメチャクチャ多義的で、発せられた文脈や発した人の含意するところを丁寧に読み解く必要があるくせに、安易に多用されるところとか、とりあえず言っておけばいいみたいな感じとか、そっくりだと思いませんか??

ぼくが大学生の時、1970年代に端を発する障害者運動や女性運動との出会いを通じて、まさに「当事者として声を挙げてもいいんだ…!」と大いにエンパワーされた経験があります。

特に障害者運動において「当事者」という概念は、これ以上遡及できない権利の原点として、自分たち自身のことを「この社会において障害問題という事に当たる当の者」=「当事者」と規定し、自分のことは自分が一番よく知っていると措定された「当事者」のニーズを押し通す「権利獲得のための武器」/「ヘゲモニー闘争のための武器」として生み出され、構築されてきたというように自分なりに理解を深めてきました。

ぼくは、日本における「当事者」概念誕生の起源を以上のように捉えています。
従って、ぼくの考える「原初的な当事者」概念/像/という存在は、修論で以下のように定義されました。

当事者という存在は社会という総体における関係や相互作用を通して、「生きづらさ」が極限化した時に「関係規定的存在」として立ち上がる。関係や相互作用を通して生み出される絶望や怒り、恨みといった負の感情の力は絶大で、そういった力を爆発力として当事者が立ち上がる際にセルフヘルプグループやオルタナティブなどが結成されることもあるだろう。(川田 2022 : 195?)

こういう「当事者」が社会に現われることは、とても良いことと見なされており、福祉を促進する存在としてややもすれば「専門家」を始めとする社会から期待されがちなように思う。

しかしそのように立ち上がった「関係規定的存在」としての当事者は、専門家や研究者による研究や記述を通して「境界画定的存在」となっていく。さらにたとえば社会福祉学による理論化を通して、社会資源として地域福祉のネットワークに組み込まれていく。そこでは「記述する者」-「記述される者」、「研究する者」-「研究される者」、「支援する者」-「支援される者」という役割が固着化していく。(川田 2022 : 195?)

たとえば日本のセルフヘルプグループ論では、AAが「治療的機能」の青い芝の会が「社会的機能」にそれぞれ特化したセルフヘルプグループであり代表例だとされている。ぼくが怒りを覚えることのひとつは、「当事者」が「『生きづらさ』が極限化した時に『関係規定的存在』として立ち上がる」という一番大事なプロセスの部分を顧みることなく、セルフヘルプグループの機能面/を社会資源としか見ない専門家や研究者の姿勢にあると思う。

「生きづらさ」が極限化して、まさに「当事者」として声を挙げるか、当事者活動なり当事者運動なりを展開しないことには、その苦境を生き延びられなかった。「当事者」になるか、死ぬか…みたいなスレスレの人の爆発力やインパクトがやっぱりすごいとは思うけども。

そういうプロセスや背景を押さえることなく、人やグループを理論(=「大成功した」「当事者」やグループに基づいて理論化されたそれ)通り機能させようとする人たちの無神経さがぼくには信じられないし、ある面でその無神経さがとても羨ましい…。けどそれは、ともすれば人の尊厳を著しく傷つけるとても暴力的な許されざる行為だとも思っています。

さて、場面は再び、イタリアのトリエステの病院跡地に戻ります。
あの広々した四角卓を10人以上と走り回る大型犬で囲んでいた不思議な空間です。

あの空間での視察が終わり、視察メンバーとわいわいがやがや感想を話し合っていた際、メンバーのひとりが「やっぱり、『当事者』の声が聞けるといいよね」みたいなことを言っていました。適当に聞き流しつつ、その実ぼくの頭の中は「?」で一杯になっていました。

「あの空間に『当事者』なんていたっけ?(若い女性の語りに応答しようとした時の自分の語り口調が「当事者」みはあったな、そういえば)」
「この人はどういう意味で『当事者』という言葉を使っているのだろう?」

パッと二つの疑問が出てきたけど、それを皮切りとして自分も自分なりにあの空間での出来事を自分が今まで経験してきた、学んできた、研究してきた「当事者」概念/像/という存在に引き付けて、あるいは照らし合わせて考え、整理に努めました。

視察団として、「支援者や治療者から、不適切な支援や対応をされることはないか?またその際、どのような対応をとっているか?」といった質問を若い女性に投げかけた際、彼女はだいたいこんな風なことを言っていました。

「そのようなことは実際あります。そのような時私は、私がそうした間違いを彼ら・彼女らに伝えることが、今後のより良い支援や医療につながると信じて相手に伝えています」

ぼくもこの場面は、「当事者」みのある発言だな~とふりかえって認識していました。
日本の文脈で言えば、2000年前後に消費者運動の流れを継いで、精神科ユーザーがコンシューマーと名乗っていた時期に語られていた、コンシューマーと名乗るあるいはなることで、ユーザーが支援者・治療者と対等になっているのだという議論に通じる部分はあるな~とか頭の中で整理していた。

あと考えてみれば、その女性は、自身が利用していた公的機関がバックアップしている自助グループのような場所のスタッフとして今後雇用されるって話もあったから、文字通りのプロシューマーでもあるのか…。

けど多分、精神障害分野における「当事者」って、自分の中で「精神障害本人の立場から自己主張を行う人」っていうイメージも強いからか、やっぱりあの若い女性の語りは総じて「当事者」みを感じなかったんだよな。そんな自分からすると日本における「ピアスタッフ=当事者」という言説に未だに戸惑っています。

付言すると、日本の精神障害分野において「専門家」は当事者活動との兼ね合いで消費者運動のことを語っていた時期あるけども、「当事者」の側では海外由来の消費者運動の理念とかそういったものを自分たちの実践や運動やその理念のレベルに落とし込めたものってほぼないと思うから、そういう意味でも「当事者」みを感じないのかもしれない。

個人的には、若い女性の自分の感じた事、意見を支援者・治療者に伝えることがより良いサービス等につながると信じているから、話すようにしているといったような表現になっていたことがとても印象に残っている。そこには自己主張に必ず伴う力みがなかったのだ。

彼女の語りの基盤には、バザーリア法下のパラダイムで関係づくりを大事にするようになってきた「専門家」のかかわりや自助グループでの交流を通じて獲得・回復した部分もあるのであろう、「他者に対する信頼感」のようなものがあるように思う。

あるメンバーとも、「あの場に『当事者』はいなかった。ただ、『人として』みんな喋りたいことを喋っていたような気がする」などと感想を共有していた。

自分は修論で浦河べてるの家の実践理論を丁寧に追っていく中で、べてるかぶれになっていってしまった経緯があるのですが、べてるの実践はもちろん日本の文脈においては画期的ですごくおもしろいし良いのですが、イタリアで学び、感じてきた「人として」と照らし合わせてみた時、雑な整理ですが、所詮、浦河での「専門家」もアディクション・アプローチやSSTを駆使して、「当事者」の下に降りていく、そうやって従来の「専門家」―「当事者」の権力構造を変えていくというアプローチも、「専門家」と「当事者」の権力差を前提とした実践なんだよな~…と途方に暮れる時がありました。

イタリアのトリエステで垣間見、経験してきた不思議な空間において、「専門家」は降りていくまでもなく、いわゆる「当事者」と人として共に同じ地平にいるように感じました。

大学時代、「当事者」意識が強かったぼくは、自分なりに編み出した「当事者研究者」という存在が果たすべき社会的役割について以下のように記述しています。

「当事者研究者」には、このように当事者や当事者グループにすり寄ってこようとする「好意的な専門家」をはじめ、多くの専門家が着込んでいる「白衣という『権威』」(向谷地 2002 : 214)を思わず脱がずにはいられなくなるような、「『専門家』も例外ではなく、その場においては、誰もが等しく『当事者』」(向谷地 2005 : 293)として「現われ」たくなるような、「現われの空間」をこの社会に築いて行くような役割があるように思われる。そのような「現われの空間」を当事者と専門家が共有することができた時、初めて、日々の治療の実践や「研究」を通して「社会的成果」を挙げることを社会的に期待されてきた専門家は、それゆえ身にまとわずにはいられなかった「白衣という『権威』」から解き放たれ、当事者と相対することが可能になるのでないだろうか。(川田 2018 : 33)

当時は「専門家」vs.「当事者」ではないけど、「専門家」―「当事者」の権力差を意識して、前提にある権力構造に対して、「当事者」としてパワーゲームを挑んでいっていた節があります。

イタリアのトリエステでお会いしてきた精神障害のいわゆる「当事者」の方々は、日本の「当事者」とは違って、当時のぼくのように別に「当事者」としてキバを研がなくても、あたり前に「人として共に同じ」を享受しているようでした。

日本の障害者福祉等の歴史をふりかえると、実際問題「当事者」が声を挙げ、行動していく中で制度が変わっていった、社会が変わっていった。その成功経験によって自信をつけた障害当事者リーダーたちが様々な地域にいる、なんて物語が語られることがあると思います。

ぼくがずーっと疑問に思い続けているのは、「どうしてただでさえ自分の目の前の現実の問題に四苦八苦させられて余裕のない『当事者』が、その上、力をつけて声を挙げたり、何かアクションをしないと周囲や社会は変わらないの?当然のように『当事者』にそういう役割や機能を要求・期待する専門家ってな~に?」ということです。

特にソーシャルワークは、「目の前の現実の問題に四苦八苦させられて余裕のない『当事者』」のやれ権利擁護だ、やれエンパワーだと言って、結局、本人が声を挙げて社会を変えていくのを側面的に支援するんだというような論調のアプローチが多くて、本当にイヤなんです。

果てはそれが「われわれの専門性だ」とか言い出すので、そんな「専門性」要らんから、「当事者」が何もしなくても、「当事者」としてこの社会に存在しないで済む社会に変えて行けるようなソーシャルアクションなり、そちらでやってくださいよ、「専門家」でしょ!?結局「当事者」を頑張らせるアプローチを「自分たちの専門性だ!」とか言ってないで、「当事者」を担ぎ上げたり、発破かけたりせずにそちら主力で社会をまともに変える方法論を「専門性」として磨き上げてよと、ぼくはここ数年ずーっと思い続けていたように思います。

「専門家」なら、「当事者」が「当事者」として闘わずとも、あたり前に「人として共に同じ」で在れる社会や環境を創ってくれよ、そのために闘ってくれよ。

それが「専門家」じゃないの?違うの?

「声なきところに福祉なし」という言い回しがこの社会にはあると思います。自分の考えていることや立場をより徹底していくと、この言説や常識を変えていくような実践が求められているのかなと最近は思います。この常識や言説を問い返し、変えていかないことには、まさに「社会を変えるために」、「専門家」や一部の社会の構成員は、「当事者」を必要とし続けるのではないかなと思います。

「当事者なき世界」を目指すなら、最低限ここら辺までは掘り下げる必要がありそう。

ラディカル過ぎるから、現実的な落としどころはその都度考えるけども…。

「当事者」という言葉に対して、ずっと両価的な感情を抱いてきました。「川田家」に何の支援も寄越さなかった、特にソーシャルワークの「専門家」が大っ嫌いでした(最近はちょっとその物語にも変化の兆しがあるけども)。

そんなぼくだから、でしょうか。修論の「4章1節 専門家と当事者の関係性―二項対立を超えて」に見るように、この二者の関係性を執拗に探究してきました。

以前、友人からSOSが届き、危機的介入のような対応をしたことがあります。
ぼくは以前からその友人が危うい部分のあること、けど彼は死ぬ時は周囲に何も言わずに消えるように死んでしまうのだろうな…と半ば諦めていた節がありました。それはSOSを貰う以前からその友人にも折に触れて伝えていたと記憶しています。

なんやかんやあって彼は今も元気にしていますが、その後彼のことをよく知る人物にもその件について相談し、「また同じような状況になったら、あなたにも連絡や相談の体制をとれるようにしたいのですが、いいですか?」といったやり取りをしました。

その時にその方から投げかけられた問いにぼくはここ数年、ずーっとうまいこと応答できずにいました。その問いとは、「それは川田さんの当事者性に基づく勘?それとも専門性に基づく意見?」といった感じでした。

ずっとこの二分法にこの訳の分からないアイデンティティ、経験的知識と専門的知識が混在している「川田八空」としてどう回答できるのだろう…?と思っていました。

今回のイタリア視察を通じて、ようやく回答が出せました。

今ならその問いに、「人として、ぼくがそうした方が良いと思ったからです!」とぼくは答えられるような気がしています。

この回答を出せた時、イタリアでの「人として」という大きな宿題を、少しだけ自分の生き方レベルに落とし込めたかもしれないと思えました。

「当事者」として力みながら声を挙げずとも、それこそ「人として」思ったことや感じた事を言えばいいんだって最近は思えるようになってきました。それはきっと「研究」でも同じです。

「専門家」と「当事者」というよく見る二項対立も「人として共に同じ」という感覚や理念の広まりと共に、少しずつでも解消していくといいな~。

そのために自分にできること、少しずつでも着実にやっていかなくては…!

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