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人助けの妨害 応用 選挙 ニセ札

1、人助けの妨害
人助けについて前にも書いたけど、追加。
追加の部分は、口出しで委縮する人が出てくるという所だ。

他人の慈善事業の邪魔になる人が存在する。
その人は、困窮者を助けるか助けないかアレコレとモノを言う。

人助けをする人は困窮者を全て助けたいのである。
感謝するかどうかで助けるかどうかを決めているのではない。
人助けをしたい人は、困窮者が自業自得かどうかで、助けるかどうかを決めない。

人助けの選り好みは邪魔。
そういう選別は、事務手続きや査定が煩雑になって、効率が悪くなる。
余計な事に金を使って、助けられる人数が少なくなる。
そもそも、余裕がある人でも、そういう炊き出しとかに並んでいる時点で、何らかの弱者である。

他人の金で人助けの口出しをする。
他人の金で気持ち良くなる。
他人の金で水商売を楽しむのと同じ。

税金を払うのは、日本で金儲けをする人間なら誰でもやっている。
ある意味、ショバ代みたいなモノだ。
自分が納税しているからといって、税金の使い道を全て口出しをするのは、他の納税者をないがしろにしている。
税金は、ショバ代だから、有権者が使い道を決める。
まあ、サタン側が国家の支配者だから、サタン側の都合で予算は決まる。
神の信者が死ぬとこの世が滅ぼされるから、サタン側は神の信者が死なない制度を作るために慈善事業や社会福祉を充実させる。
だから、予算に口出しをしても意味がない。意味は無くても、困窮者が委縮するから、邪魔になる。意味は無いし有害だし、ロクな事がない。
妨害者は、自分自身が無意味で有害だから、誰かを無意味で有害な存在に仕立て上げて叩きたいのだろうか。心理学で言う所の投影である。

心理学における投影(とうえい、英: Psychological projection)とは、自己のとある衝動や資質を認めたくないとき(否認)、自分自身を守るため(防衛機制)それを認める代わりに、他の人間にその悪い面を押し付けてしまう(帰属させる)ような心の働きをいう

投影 - Wikipedia

困窮者は、助ければ天に富を積む事になるから、無意味な存在ではなく有益な存在である。

マタイによる福音書 19:21
イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
マルコによる福音書 10:21
イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
ルカによる福音書 18:22
これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

困窮者は意味があるけど、妨害者は意味が無いし有害である。

妨害者は真面目に人助けをしている人たちの邪魔をしている。
妨害者は、何で社会から無視されるのか判らないのだろうか。
真面目にやっている人は困窮者を全て助けたいのに、口出しする妨害者は困窮者の中で助ける人と助けない人を勝手に選別する。

口出しする奴らは、どうして自分が排除されるのか、少しは考えた方がいい。
他人の金で水商売へ通おうとしている奴と同じである。
「他人の金でキャバクラ通いしたい」なんて言っている奴なんか、排除されるに決まっている。
妨害者は、自己中な独善に酔いつぶれて、自分を客観的に見る事ができなくなっているのだろう。
追放される原因は、こういう自己中なところだ。

次のような聖書箇所がある。

自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』

マタイによる福音書 20:15

一時間ほど働いた労働者に一日分の賃金を払う人に対して、一日に渡って働いた労働者が文句をつけた時に、雇い主が言った言葉だ。
一時間ほど働いた労働者に文句を付ける奴は、働き口の無い人にも必ず文句を付ける。
自分の健康と能力を私物化している奴は、びょじゃくで働きたくても働き口の無い能力不足の人に文句を付ける。

この雇い主というのは、天の主の事である。
そもそも、この世は神が創って、神が恵みの雨を降らせているのだから、健康な労働者は働き口が得られる。
神がこの世を創ってくれなかったら、健康な労働者は、一日の仕事も得られなかった。その神に対して文句を付けるのだから、相当な根性である。
なぜ、健康に創ってくれた事に感謝しないのか。
なぜ、一日分の仕事を用意してくれた事に感謝しないのか。

自分が健康に恵まれたから、一日中の労働をこなして天国へ入って、健康に恵まれなくて働けない人を地獄へ落とそうと考えているのが、口出しをする奴らである。
神は、神に立ち帰る人を全て天国へ入れたいのである。
神と価値観が違う人間は天国へ入れない。
神のルールを行き過ぎて必要以上にキツクするのも天国へ入れない。

人助けをしていない人間が人助けに口を出すと必ず邪魔になる。
スポーツをしていない人間がスポーツに口を出すと必ず邪魔になる。
スポーツをしている人間がスポーツに口を出したら邪魔になる時があるのだから、スポーツをしていない人間がスポーツに口を出したらもっと邪魔になる。

助けを必要とする人が委縮して、助けを求めなくなって、助けたいのに助けられなくなるから、口出しは邪魔である。
ハッキリ言って人殺しよりも悪質だから地獄へ落ちる。
人助けをしないばかりか、人助けする人を妨害する。

マタイによる福音書 23:13
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。
ルカによる福音書 11:52
あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」

他人の人助けに難癖を付けている人は、自分が人助けを妨害しているのを客観的に見る能力がないのだろう。
人を助ける意識が欠落しているから、人助けを妨害している意識も働かない。

人殺しは反省したら天国へ入れるけど、助かろうとする人を妨害したら「不幸だ」と神であるイエス・キリストが断言しているから、反省しても赦されないのだろう。
助かろうとする人を妨害しても不幸なのだから、多分、人助けの妨害も似たような罰になると思う。人々を改心させようとしている人を妨害したら、神は怒る。
神の言う不幸とは地獄へ落ちて焼かれ続けるか魂を消される事だ。
ただ、本当に心の底から反省して、被害者に謝罪するなら赦されるかもしれない。
しかし、サタンの存在を確信している状態で人助けを妨害したら、反省しても赦されない。

改善する意識を持てば客観性が身に付く。
改善する意識の前に道徳心を身に付ける必要がある。
道徳心は、道徳の本とか、教養の本とか、そういうのを読めば身に付く。

道徳の本で悪人の特徴と、自分が似ているなら、自分が悪人だと自覚できるだろう。
まずは、自分が悪人だと自覚するのが客観性を身に付ける手段である。

不道徳でもそれなりに生きていける社会にしたのがサタン側である。
サタン側は人々を地獄へ道連れにするのが目的だから、人々を不道徳にして地獄へ道連れにする。

口出しする人は、健康だから稼げているだけで、健康を失えば困窮者に成り果てる。いつ自分が困窮者になるか判らない事実を理解した方がいい。

2、応用
自己中はゴリ押しして工夫しないから、応用力が身に付かない。
応用力の無い自己中は、まずは何かを助ける意欲を持つ事で少しずつ改善する。

3、選挙
学歴詐称は上辺の問題であって、実際の問題は「エジプトの太陽崇拝の悪魔崇拝の手先」というのが本当の問題だ。
外国の奴隷が権力者になるのだから、国や自治体が外国の植民地になる。
まあ、全ての国はサタンの支配下だから、大して変わらないのだけど。
「自分1人のために人々を植民地へ落とす政治家に投票する有権者」という図式は、得票数が捏造とでも言わないと辻褄が合わない。

自分の悪行について質問されているのに逃亡するから臆病者である。
昔の自分が今の自分の首を絞めている。
他に何か不祥事を作っているのではないかと思ってしまう。
自分から自白するなら、他の悪行はあまりないと思う。しかし、世の中には、自分の小さな悪行だけを自白して、自分の大きな悪行を隠ぺいする奴も存在するから、自白してもまだ信用してはいけない。
神に尽くす生き方をしたら信用していい。

臆病者は重要な場面で大失敗をするから、権力を与えてはいけない。
臆病だから改心できないのか。
臆病者のせいで、神の進軍命令を拒否して逃亡を計画して、神が激怒して40年の放浪の懲罰を下される。
臆病者は必ず身内に甚大な害悪を撒き散らかす。

選挙は売名だけではないのに、俺でも思い付く事を言わない専門家は、信用に値しない。
まあ、権力を与えるのはサタン側だから、票を分散とかは、全く意味のない話だったから、票の分散は撤回する。

昨日に書いた事で、選挙は、不正選挙だけど真面目にやっている人を侮辱してはいけなかった。
そういう人をさげすむ気持ちがあったから反省する。
申し訳ありませんでした。
もしかしたら、そういう真面目な人は神に立ち帰るかもしれないから、一定の配慮は必要だった。

4、ニセ札
娼婦にニセ札と思わせて渡すと、紙幣偽装の犯罪になる。
娼婦に対価を払わないのは犯罪になる。
娼婦が犯罪だからといって、対価を踏み倒す犯罪をしてもいい理由にはならない。
紙幣偽装でなくても、詐欺には該当する。

聖書でユダが、娼婦に偽装したタマルに対価を払おうとしたのは、どんな事でも必ず対価は払わなければならないという神の厳格な命令である。

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