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「ほめられたいから」を止めてみる

皆さん「日曜劇場」観てますか?
昔は観ていなかったんですけど「半沢直樹」や「下町ロケット」辺りからよほどのラブストーリーとかでない限り、楽しみに観ています。

今やっているのは「世界的に有名な指揮者」とその娘の関係を中心にした家族再生ストーリー、みたいな感じでしょうか。
私の子供の頃の夢が「指揮者」だったこともあって、毎回流れるオーケストラサウンドも魅力的、また好きな俳優さんが出ていることもあって、なかなか面白く観ています。(ゆり子様と西島氏の夫婦役はこれで何作目だ…?)

昨晩の放送。
ドラマ全体にほんわかした雰囲気があり、時折笑えるようなところもあったりするのですが、ドキッとした一言が。

ヴァイオリンを練習している女子高生に向けて、この指揮者の娘が一言。
「誰かに褒められたいとかってモチベーションで練習しない方が良いよ」みたいなセリフが放たれました。

この女子高生は指揮者になるべく「まずは楽器を一つ弾けるようになって、演奏者の気持ちが分かるようになりなさい」というアドバイスから、ヴァイオリンを習い始め、一方の娘は幼い頃からの英才教育でコンテストを総なめにするようなヴァイオリン奏者だったにも関わらず、何か問題があってコンテストのステージから逃げ出して以来、音楽から離れた存在。
その際に父親との確執が出来たのかな、と思われます。(何があったのかは恐らく来週辺りに経緯が分かって来る模様)

この女子高生が「内緒で練習して師匠(指揮者)を驚かせたい」という想いから練習をしていたことが分かったところでの上記のセリフでした。

ここまでのストーリーからきっと、この娘も「親に褒められる」のが嬉しくてヴァイオリンを続けたものの、途中からそれがプレッシャーとなり結果的にヴァイオリンから離れたであろうと想像出来ます。
この経験から女子高生に対して、このような言葉を掛けたんだろうと思います。

こういうことって世間的にもアリがちなケース。
親の期待に応えるべく、勉強だったりスポーツだったり頑張る子供って少なくないと思います。
それ自体は悪いことではないのですが、それがいつか「褒められなくちゃ」「褒められるために」となってしまうところが問題となります。

私が小学校高学年になった頃、自治体がやっている水泳教室に通っていたことがありました。
私がやりたいと言ったのか、親から勧められたのかはあまり覚えていないのですが、恐らく病気がちで身体が弱かったため、親が申し込んだんだろうと思います。

通い始めて一年くらいすると「進級テスト」があり、それに合格するとその一つ上の「選手コース」に進むことが出来ます。
私は何故かそこで合格しちゃったんです。(おぼろげな記憶ですが、生徒全体の約20%くらいしか合格しなかったはず…)

親は何を勘違いしたか「この子には水泳の才能がある」と思い込んでしまい、コーチからも「この子は是非通わせてください」と言われたこともあって、そのまま選手コースに進んだわけですけど、そこでの練習はいきなりきつくなり。

今はどうか分かりませんが当時は「ひとまず4種目全部を一定水準以上で泳げるようになる」必要があったんですけど、どうしてもブレスト(平泳ぎ)とバタフライが苦手で、そればかりやらされました。
そこからはもう水泳そのものが楽しくなくなってしまい、一応通ってはいたものの途中からは行ったふりしてサボるようになり、それがバレて親から怒られ、教室は辞めさせられました。(私としてはそれで良かったわけですが)

恐らく私は親から褒められたことが嬉しかったものの、途中から「褒められるために」に変わったんだと思います。
昭和のことですからまだそこには根性論とか精神論が主流で、それに基づいて勉強もスポーツも行なわれていたのも理由の一つだと思います。

自分が好きでそれがやりたくて、それが楽しければ良いわけです。
そこで苦しさやつらさがあったとしてもそれは「自分のやりたいことだから」という想いや「将来○○になりたい」といった強い想いがあれば、乗り越えることが出来ます。(もちろん途中で挫折することもある訳ですが)

ですがそれが自分のためでなく「他人のため」になってしまった途端、それはただ苦しくつらいだけのモノになってしまいます。

最近は「子供のやりたいことをさせてあげる」という親も増えているようですが、何しろ子供はまだ何がしたくて、どれもひとまず面白いと感じるところもあります。
最初は親から勧めるということもあると思います。
きっかけはそれで良いと思いますけど、その後はとにかく子供の「自主性」を大切にしてもらえたら…
そんな風に思います。




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