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ヤングケアラーに支援の手を

昨日、下野新聞に「ヤングケアラー支援へ条例案、県議有志が来年3月提出へ」という記事が掲載されているのを見ました。
(下野新聞とは、栃木県の地域新聞社です)

それに先立って県が初めて小、中、高生およそ5万人を対象にその実態調査を行なったようですが、いずれの割合も国の調査結果を上回ったそうです。
またこの調査では明らかに出来ていない、潜在的なそれも考えるとその数は相当数に上ることも想像出来ます。

今回のこの条例案提出に伴い、議会ではパブリックコメントも募集しており私も意見を送ったのですが、改めてその認知度を上げていくことの必要性を感じました。

ヤングケアラーというコトバ自体はここ数年でマスコミに取り上げられることも増え、それなりに「知っている」人も増えてはいると思うのですが、その実態や成り立ちは…となると、まだまだ知らない、分からない人の方が多いんだろうと思います。
(きょうだいやきょうだい児となると、さらに知らない人の方が多いはずです)

ヤングケアラーもきょうだい児も「アダルトチルドレン」であり、そこに「生きづらさ」があることは間違いありません。
ですがそこを知らないと、誤った見方をされてしまうことがあります。

病気や障がいを持った家族を介護する子供を、周囲は「美談」として終わらせてしまうからです。
目の不自由な母親の手を引いて歩く子供、父親が乗る車いすを押す子供、障がいを持った兄弟姉妹の面倒を見ている子供…
傍から見れば「頑張ってるね、よくやってるね、偉いね」と見えるはずですし、そう思われるはずです。
そしてその当人たちにとっては生まれた時からそれが「当たり前」となってしまっていて、自らがその環境にどう適応しているのかなんて分かりません。

自分がしたいこととか、自分が欲しいモノとか、そんなことを考える余裕もなく日々を過ごしていることが「自己犠牲を伴っている」などと微塵も考えないでしょう。

実際にカウンセリングをしている中でも、ヤングケアラーやきょうだいの方はいます。
ですが彼らは自分がそうだと気付いていない事の方が多いのも事実です。
実際に話を聞いていく中で子供の頃の家庭環境を振り返った時、自分が何をしたいのかなんて考えていなかった自分がそこに居たことに気付かれます。

放課後に部活をしたり、友達と遊びに行ったり、塾や習い事に行くわけでもなく、夕食の買いものだったり家の掃除や洗濯、面倒を見なければならない家族の介護しかしていなかった自分がそこにいる。
けどそれはその本人には「当たり前」の日常で、それをしなければならないと無自覚に思い込んでいたことに気付かれます。

誰かに頼るとか、助けを求めるという選択肢を知らず、知っていたとしてももうそれは「自分がすべきこと」という思い込みが出来上がっていますから、頼ることをしない。
本当は「助けを求めて良いんだよ」ということを知っていたとしたら、その子の人生も変わっていたかも知れません。

その本人たちにその自覚が無いというのは、ヤングケアラーやきょうだいへの周知・啓蒙が足りていないことの表れだと考えています。
その本人たちにその自覚を持ってもらうためには、その周囲にいる方々、ご近所さんや学校、病院や施設といった関係機関、そのような場所にいる人々が病気や障がいを持っている当人だけでなく、その家族にもヤングケアラーやきょうだいの知識を持って接していく必要がある、と感じました。

もちろん心理カウンセラーである私もその一端を担う者として、このような情報やその実態を発信していかなければ、と思いました。



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