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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[094]第5章 モンゴル高原

                         安達智彦 著 

【第5章の主な登場人物】
ナオト ∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙ 日本海を越え、フヨ国を通って匈奴を訪れたヒダカの青年
エレグゼン ∙∙∙ ナオトを捕らえた匈奴の若者。ナオトに乗馬を教える
ザヤ ∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙ 匈奴の娘、エレグゼンの従妹。ナオトを慕う
メナヒム ∙∙∙∙∙∙∙∙ ザヤの父、エレグゼンの伯父。匈奴・左賢王の守備隊長
イシク ∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙ タンヌオラ山脈の北、トゥバに住む腕のいい鍛冶。ニンシャ人
バフティヤール ∙∙∙∙ ザヤの兄
カケル ∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙ 大陸に渡り、匈奴と取引するヒダカの舟長。ナオトの義兄
 
「第5章 モンゴル高原」のあらすじ
 一月かけてフヨの原を渉り、ヒンガンの山々を越えたナオトは、地面から溢れ出た水が豊かな緑の草原を覆っているように見える大きな湖の西に佇んでいた。
 疎らな林の梢の上をトンビが円を描いて飛んでいる。見上げるナオトの前に、白い犬に先導されて、馬に乗った二人の男が現れた。匈奴の騎兵だった。
 捕らえられたナオトは、若い方の騎兵についてくるようにと命じられ、丘を越えた先にある屯所まで走った。並び立つゲルの一つに入り、身振り手振りで尋問を受ける。
 その者は、ペルシャのものだという短剣を革帯に挟んでいた。ソグド語はペルシャ語に近いとフヨの入り江でヨーゼフから教えられていたナオトは、ペルシャという音に応じて、試みに、ダリャーと覚えたてのソグドの言葉を発した。通じた。二人の間に会話が芽生える。
 幼い時に父を亡くしたその若い匈奴がエレグゼンというイスラエル人の名を持つと、ナオトは後に知る。
 匈奴がヒダカの者を見ることなどない。危害はないとわかるとナオトは、匈奴国の東の牧地に客人として留め置かれることになった。
 敵から身を隠すようにして渉ってきたフヨの原では、食はままならなかった。ずいぶん瘦せたナオトを気遣って、エレグゼンの従妹のザヤという娘がヤギやヒツジの乳から作った品を運んでくれた。
 ザヤは、ナオトが見た初めての匈奴の娘だった。その立ち姿はしかし、どことはなしに、ヒダカの浜でカケルと暮らす姉のカエデに似ていた。
 乗馬をエレグゼンに教わり、ヒダカで倣い覚えたやり方で木炭を焼くなどして短い秋を過ごしたナオトは、いよいよ、大陸に渡って初めての厳しい冬を迎える。                【以上、第5章のあらすじ】

第5章 モンゴル高原
第1節 林の中の出会い  

[094] ■1話 モンゴル高原で初めて目にした人々   【BC92年8月末】
 緩やかに上り下りしながら続く獣道けものみちを、ナオトは西北にしきたの方角に進んだ。
 たにを下る途中に、ニレのように見える大きな木があった。闇の山中は怖いので、まだ陽は残っていたが、横に伸びた太い枝まで登って仮眠した。虫が多い。
 翌朝、日が昇る前に起きて川水で顔を洗い、パーンと顔を両手で打ってから、薄闇の中を谷川沿いに歩き出した。
 川岸を離れてからずいぶん来た。生えている木々を見る限り低地とは思えないが、もう下ってはいなかった。周囲にはマツが多い。霧雨が上がって、森はにおい立っている。ヒダカと同じだと思った。
山は越えた。森と川の湿気から守ってくれた少し大きめのシカ革の袖なしは、もう脱いでもよさそうだった。 
 
 高い木が増え、森は次第に深くなってきた。方角を間違わないようにと手頃な木を見つけて上ると、遠くに光を受けて反射している濃い緑色の湖面が見えた。草の原に浮いているように見える。
 ――ヨーゼフが言っていた通りだ。まずは、あの湖の南に出よう。
 何処どこへという当てがあるわけではない。とりあえず、ヨーゼフの息子のウリエルが住むという山と川と大きな岩の近くの丸太の家を探してみようと決めた。そこまで行けばきっと匈奴は見つかる。
 手掛かりは、ヨーゼフの言葉と革切れに描いてくれた簡単な地図だけだった。ハルビンの北を真西に急ぎ、山を越えるまで半月。大きな湖が見えたら、その南のほとりから六日。
 昨日の夕方、日が沈んだ山と山の間に向かって進んだ。方角に迷いはなかった。
 三日後、ナオトは川沿いに広がる木のまばらな林の中にいた。トンビのピーヒョロと鳴く声が聞こえて、大きく回りながら飛ぶ姿が見上げたの間に見え隠れしている。
 ギシギシとマツの落ち葉を踏む音が木立の奥から聞こえてきた。
 ――なんだろう?
 ナオトは立ち止まり、夏の名残りの日射しを受けてそこだけ明るい一角をじっと見守った。けものが飛び出して来たらのぼって避ける木はあれと、すでに目星めぼしを付けてある。
 白い犬を先に走らせて木立こだちの間をするすると抜けてきた馬があたりにひづめの音を響かせたかと思うと、突然、目の前に二人の男が現れた。十歩もないところまで迫って来て、馬上からこちらを見ている。見ているというよりも、睨みつけている。
 ナオトはいつものように平静で、ごく自然に二人を見返した。その様子をじっと見ていた年上の男が首をゆっくりと左に回し、隣りの若い男に何か言った。
「……。ゾチロムトゴエ」
 そう聞こえた。名前かと思い、ナオトはすぐにそれを覚えた。
 ――ゾチロム……。
 馬首を回して一人が犬とともに走り去ると、ゾチロムだけが残った。年恰好かっこうは、ナオトよりも少し上に見える。
 馬から飛び降りたゾチロムは、身振りで手を見せろと言った。ナオトが動こうとしないので、手荒く右手をつかみ、裏返してじっと眺めて言った。
「奴隷の手だ」
 この意味は後で知った。その後に、
「付いて来い」
 と言ったのだが、言葉がわからないらしいと気付いたゾチロムは有無を言わせない勢いで身振りによってそう指図し、馬上に戻った。馬を前に進ませ、振り返って、ナオトがすぐ後ろに付いているのを確かめると、馬の腹を軽く蹴って走り出した。
 それに導かれるようにしてナオトは、疎林そりんを抜け、丘を上り、下った。
 足には自信のあるナオトだったが、相手が馬では付いて行けない。ゾチロムはときどき振り返り、止まり、ナオトが追いついて息を整えるのを待って、また走り出した。南に向かっているようだった。

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第5章の目次 【各節の初めへ移動するためのリンク】
 第5章1節 林の中の出会い [094] の冒頭へ
 第5章2節 匈奴の牧地 [099] へ
 第5章3節 ザヤがナオトを救う [102] へ
 第5章4節 エレグゼンが負った槍の傷 [105] へ
 第5章5節 ナオトが語るヒダカ [108] へ
 第5章6節 鉄囲炉裏 [111] へ
 第5章7節 木炭すみ [113] へ
 第5章8節 モンゴル高原に住むヨーゼフの子、ウリエル [116] へ
 第5章9節 季節は巡る [120] へ

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