『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[095]匈奴人の住まい、ゲル
第5章 モンゴル高原
第1節 林の中の出会い
[095] ■2話 匈奴人の住まい、ゲル
日の入りも遠くないという頃に、四つ目の丘の上に達した。ナオトは息を切らしていた。ようやく息を取り戻して見下ろすと、見慣れない丸い作りのものがいくつか水辺に並んでいて、その周りに馬に乗る男たちが何人か見えた。そこは、数日後に控える冬の牧地への大規模な移動に備えて、東の境の様子を見に来た匈奴の小隊が寝泊まりしている屯営だった。
指差して、ヒダカ言葉で訊く。
「あれは家か?」
「ゲル。ゲルだ」
応えるようにして、ゾチロムが口にした。
ゲルと三回心で繰り返して、これも覚えた。ゾチロムの後についてゲル近くまで寄って行った。
よく見ると、穆棱河の騎兵が荷車に載せたコメ俵を覆っていたのと同じようなヒツジの毛の叩き布で木組みを丸く覆い、何かの獣の毛で綯ったらしい縄をぐるりと回し、上下に絡めて縛っている。真ん中の一番高いところから煙が上がっていた。生まれて初めて見る家の形だった。
ここ数日、ゾチロムが使っているゲルに招き入れてくれた。入るときに、皮を縫って作ったらしい三角の被り物をとって戸口に掛けた。髪を結わえ、革紐で留めている。ヒダカ人のやり方と似てはいるが、どこか違う。
そこに座れと身振りで示した。ゾチロムの座り方はヒダカと同じく胡坐だった。
少し暗くなってきたので灯りをともした。獣の脂を燃やしているのか、変わった臭いがした。ゲルの中央に置いてある小ぶりの囲炉裏をかき混ぜて、丸い草の塊のようなものを数個焼べ、何かの汁を沸かそうとしている。ゲルの中に煙が広がった。
「煙たいな……」
思わず口から出た。まるでその意味がわかったかのように、ゾチロムがにやっと笑って言った。
「これは仮りのゲルだ。囲炉裏も仮りのもので天窓に竹筒を通していないから煙たい」
ナオトは、六日ぶりに温かいものを口にした。ゾチロムがふるまってくれた。味がなく少し酸っぱい白くて生温かい汁をまず飲んだ。次に、ゾチロムを真似て乳の匂いがする白いものを大きめの椀から二本指ですくって口に運んだ。ウニと似た歯触りの、だが初めての味だった。
よく聞き取れなかったが、ゾチロムが何とかと言った。たぶんそれがその白いものの名前なのだろう。
――なんと言ったのだ?アウールーか?
他にも、何か乳の匂いのする、しかし違う味の黄色掛かった白い食べ物。それから最後に、干した肉。
酸っぱくて、塩辛くて、臭いがきつくて、ちょっと油っぽい味気のない食事だったが、腹に入れるとグーグーと鳴り、途端に落ち着く気がした。酸っぱい白い汁はヨーゼフがいつも出してくれたアイラグに似た味がした。ゾチロムは飲み物を口にした後、ときどき摘まむだけで、あとは、ナオトが食べる様子をじっと見ていた。
二人に会話はなかった。そもそも、話をしようにも言葉が通じない。
第1節3話[096]へ
前の話[094]に戻る