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サマセット・モーム『サミング・アップ』三つの価値(美)

「美」はこれ(真)よりましな扱いを受けている。
長いあいだ私は、人生の意義を与えるのは美のみであり、地球上に次から次へと出現する各時代に与えるべき唯一の目標は、時々でいいから芸術家を世に送り出すことだと、考えていた。
芸術作品は人間の活動の頂点の立つ産物であり、人間のあらゆる悲惨さ、終わりなき労苦、裏切られた努力もこれによって遂に正当化される、と考えていた。
つまり、ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の天井にある人物画を描くためなら、シェイクスピアがある長ゼリフを書くためなら、キーツがいくつかのオードを書くためなら、無数の人々が生き、苦しみ、死ぬだけの意味はあったと思ったのだ。
それのみが人生に意味を与えうる芸術作品の中に美しい生き方も含めることで、私はこの極端な考えを後になって修正したけれど、それでもなお私が尊重したのは美であった。
しかし、このような考えを、私はかなり以前に放棄してしまった。

芸術作品のためには多くの人の犠牲は仕方がないと考えていた時期もあったけれども、その極端な考え方は放棄したという。

芸術は人々の日々の活力のためにあるのであり、多くの人の犠牲の上にあるのではない。

第一に、美は終止符だと分かった。
美しいものを見ていると、私はただ感心して眺めているしかないのだった。それが与えてくれる感動は素晴らしいが、感動は持続しないし、無限に感動を繰り返すことも出来なかった。
そこで、この世の最高に美しいものも結局私を退屈にさせた。
試作品ならもっと長続きする満足が得られるのに気付いた。
完璧な出来ではないので、却ってわたしが想像力を働かせる余地があった。あらゆる芸術作品の中で最高の作品においては、あらゆるものが表現されているので、私ができることは何もない。
そこで私は落ち着きを失い、受け身で眺めているのに飽きてしまう。
美は山の頂上のようだと思った。
そこまで辿り着いたら、あとは下るしかない。
完璧というのはいささか退屈である。

誰もが目標としている最高の美は完璧に達成されないほうがいいというのは、人生の皮肉の中でもかなりひどいものだ。

完璧な美という芸術作品は想像力をかき立てることが出来ないため、結局は退屈するというのだ。

未完であるほうが芸術作品の感動が持続するというのは皮肉だという。

芸術においては説明しきることで想像力が使えなくなるという現象が起こる。

それを感じると途端に見ることが出来なくなる映画やドラマがあるのに感じ方としては似ているのかと思う。

人は美という言葉で審美感を満足させる精神的ないし物質的なものー大抵は物質的な物だがーを意味していると思う。
だが、これでは水が意味するのは濡れたもの、と言うに等しい。
美とは何かをもう少しはっきりさせるべく、私は権威者がどう言っているかを知ろうとしてたくさんの本を読んだ。
私は芸術に熱を上げている多くの人とかなり親しく付き合った。

こういう連中からも、本からも、私の目を開かせてくれるようなことはあまり学べなかったと思う。

私が気付いた奇妙なことは、美の評価には永続性がないという点だった。
どこの美術館へ行っても、ある時代の最高の目利きが美しいと判断したのに、現代の我々には無価値と思える作品で一杯である。
私の生涯の間でも、少し以前まで最高とみなされていた絵画や詩から、美が日の出の太陽の前の白霜のように蒸発するのを見た。
どれほど自惚れが強い者でも、自分の判断が最終的であるなどと考えることはまず出来ない。
今我々が美しいと考えるものが次の時代ではきっと軽蔑され、我々が軽蔑しているものが名誉を獲得するかもしれないのだ。

得られる結論はただ一つ、
美は各時代の要求に関わるものであり、我々が美しいと思うものを調べて絶対的な美の本質を探すのは無駄だということである。
美が人生の意味を与える価値の一つであるにしても、それは常に変化しているものであり、それゆえ分析できない。

先祖が嗅いだバラの香りを我々が嗅げないのと同じように、先祖が感じた美を感じることなど出来ないからである。

芸術作品の価値は時代とともにその要求は変化しているという。

その時代の流行りでなければ評価されないという時代があったように思う。

しかし

評価されるための芸術となると、もはやそれは芸術だと言えるのだろうかと疑問が出てくる。

・・・

美が人生の大きな価値だというのなら、美がそれを味わうことができる美的感覚を持つ階級のみの特権だいうのは信じがたいことだ。
エリートだけが分かち合っている感性が人生の必需品だと主張するのは変だ。
だが、美学者はそのように主張する。
白状するが、愚かな若造だった私は、芸術(そこに私は自然美も入れていた。これも絵画、交響曲と同じく、明確に人が作ったものだと思っていたし、今もそう思う)が人間の努力の最高の成果であり、人間存在を正当化すると考えていて、芸術が分かるのはエリートだけだと思うと、言うに言われぬ満足感を覚えたものだった。
その後、かなり以前からこの考えは変だと気付いている。
美が一部の人の専有物だとは信じられない。
特殊な教育を受けた人にしか意味を持たないような芸術作品は、それを好む一部の連中と同じく、くだらないと思いたい。
芸術は皆が楽しめる作品である場合にのみ偉大であり、意味を持つ。
一部の限られた一派の芸術は遊びである。

芸術を理解できるものだけがその芸術の良さが分かるというエリート意識が本来の芸術における感動から遠ざけるものとなる。

一部の者にしか分からないものは芸術ではなく遊びだという。

芸術に対しての真の感動を持つことではなく、特権意識を持つことで得られる自己満足でしかなくなるからだ。

ところで古代美術と現代美術の間にどうして区別をつけるのか、私には分からない。
あるのは芸術のみであるのに。
芸術は生き物である。
芸術作品の歴史的、文化的、考古学的な曰く因縁を考察することによって、作品に命を与えようとする試みは無意味である。
ある彫像を作ったのが古代ギリシャ人であろうと現代フランス人であろうと、そんなことはどうでもいい。
大事なのは彫像が今ここで人に美的感動を与え、感動によって人を仕事へと駆り立てるということである。
もし芸術作品が、自己耽溺や自己満足の機会を与える以上のものであろうとするなら、人の性格を強め、人を正しい行動に一段と適するようにさせなくてはならない。
とすると、
そこから得られる結論は、私は好まぬものだが、次のように認めざるを得ない。

即ち、
作品は成果によって価値を問われるべきであり、成果が上がらなければ価値はないのである。
芸術家がよい成果を得るのは、成果を狙わないときだという。
このことは事実として認めるしかないらしいが、奇妙な話であり、私には何故だか不明である。
芸術家は、彼が説教していると気付いていない時に最も印象的な話をする。
ミツバチも自分の目的のためのロウを作るのであって、人間が様々な目的に利用することには気付いていない。

芸術には倫理観が伴っていなくてはならない。

悲惨な有様を描くとしても描く側にまっとうな倫理観が必要となる。

そうでなければ私たちがその芸術作品に感動することは出来ないからだ。

そして

芸術を付加価値をつけることで判断することではなく

その成果で判断することが重要だという。

もっともだと思う。

そして

芸術家が最も成果を上げることができるのは

その成果を狙わない時だという。

成果を狙うこと自体

芸術の本来の目的から逸れた目的となるからだ。

芸術そのものを目的とし

創作せざるを得ないようなときにはじめて

その芸術は輝く成果をもたらす。

それが本物の芸術というものだ。

本物の芸術が見たい。

本物の芸術はほんとうに素晴らしい。

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