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エーリッヒ・フロムの言葉

人間が自分で意味を与えないかぎり、人生には意味がない。

自分の人生を自分で引き受けて

自分で

自分の人生の中に

自分なりの意味を見つける。

一人でいれらる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。

まずは一人でいることができること。

誰かに依存することを

愛だと勘違いすることがないために。

愛は能動的な活動であり受動的な感情ではない。

その中に「落ちる」ものではなく、「みずから踏み込む」ものである。

愛は何よりも与えるものであり、もらうことではない。

愛は求めるものではなく

愛は与えるもの。

与えるものが本当の愛。

サディズム的人間は、

彼が支配していると感じている人間だけを

極めてはっきりと「愛し」ている。

妻でも、子でも、助手でも、給仕でも、道行く乞食でも、

彼の支配の対象にたいして、

かれは愛の感情を、

いや、

感謝の感情さえ持っている。

彼らの生活を支配するには、彼らを愛しているからだ、

と彼も考えているかもわからない。

事実は、

賞賛で、愛を保証することで、

ウィットや光彩ある才気で、関心を示すことによって、

他人を買収している。

彼はあらゆるものを与えるかもしれない。

ーただ一つの事をのぞいて、

すなわち自由独立の権利をのぞいて。

そんな人は、

自分を特別な存在であると無意識に思っている。

その特別感を自分に与えない人に対しては

もう決して

愛情のようなものは

与えることはない。

支配できているときにだけ

愛情のようなものを与えるだけだ。

けれども

それは愛ではなく

契約に過ぎない。

自発的に行動できなかったり、

本当に感じたり考えたりすることを表現できなかったり、

またその結果、

他人や自分自身に対して

偽の自我を表さなければならなかったりすることが、

劣等感や弱小感の根元である。

支配したいけれども

劣等感にも苛まれている。

もっとも厄介なもの。


自分と同じように

他人を尊重すること。

自分にも正直でいること。

少しづつ

劣等感が薄まり

自信がついてくる。

マゾヒズム的人間は、

外部的権威であろうと、

内面化された良心あるいは心理的強制であろうと、

ともかくそれらを主人とすることによって、

決断するということから解放される。

すなわち自分の運命に最終的な責任を持つということから、

どのような決定をなすべきかという疑惑からも解放される。

決断からの解放を選ぶことで

自分の人生の選択肢を放棄している。


それは自由ではなくなる。

自分自身を信じている者だけが、他人にたいして誠実になれる。

自分を信じることができる人が

他人を同じように信じることができる。


自分さえ信じない人は

他人なんて信じることはできない。


自分を信じるためにも

何かを続けてすることが大事。


自信がついてくる。

自分を信じることができるようになる。

すると

他人を

なんとか

信じるようになれるかもしれない。









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