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V・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』裸の実存 他者の実存 明らかになったこと

裸の実存
・・・その年月を経て、人間性が問題であることもはっきりしたのです。
すべてはその人がどういう人間であるかにかかっていることを、私たちは学んだのです。

最後の最後まで大切だったのは、その人がどんな人間であるか「だけ」だったのです。

その時の状況の中で

どのような人間であるかということが

生きる意味に繋がってくるというのです。

自分が自分の生きるということに責任を持ち続けていくためには

自分がどんな人間でいたいのかが問題となるということです。

・・・
バイエルン地方のあるところに強制収容所がありました。

そこでは、ナチスの親衛隊員である収容所所長が、ひそかに、自分のポケットから定期的にお金を費やして、近くにあるバイエルンの市場町の薬局で「自分」の囚人のために薬を調達していたのです。

他方、
おなじ収容所で、収容所での最年長者、つまり自分自身囚人である人間が囚人仲間をぞっとするような仕方で虐待していたのです。

つまり、人間にかかっていたのです。

収容所所長であっても自分のお金を出してまで薬が必要な囚人に与えたいと思うことができるということです。

そこには一人の人間としての存在があります。


一方では

同じ囚人でありながら自分の存在価値を求めてもらうために

他の囚人に対して酷い虐待をしたのです。

人間としての生きる意味を見失ってしまっていたのかもしれません。


自己の生存のみを考えていたのでしょうが

生存にも繋がらないことにも気がつかない状況だったと言えます。


最後の最後まで問題であり続けたのは人間でした。
「裸の」人間でした。

この数年間にすべてのものが人間から抜け落ちました。
金も、権力も、名声もです。
もはや何ものも確かでなくなりました。
人生も、健康も、幸福もです。
すべてが疑わしいものになりました。
虚栄も、野心も、縁故もです。
すべてが、裸の実存に還元されました。

苦痛に焼き尽くされて、本質でないものはすべて溶け去りました。
人間は溶けだされて一つになり、その正体を現しました。
それはつぎのどちらかでした。

ある場合には
その正体は、大衆の中のひとりでした。
つまり、本来の人間では全然ありませんでした。
つまりじっさい、どこの誰でもない人間でした。
匿名の人間、名もない「もの」、たとえば囚人番号でした。
人間は今となってはもうそういう「もの」でしかなかったのです。

でも、
またある場合には、人間は、溶解されてその本来の自己にもどったのです。

裸の実存となって

人間はただの「もの」となってしまうのか。

それとも

生きる意味のある存在として生き続けることができるのか。

そこが分かれ道ということです。

恐ろしい状況です。

それでは、やはりまだ決断というようなものの余地があったのでしょうか。そうだとしても、不思議ではありません。
人間はありのままのの実存に連れ戻されたのですが、この「実存」とは、まさしく決断にほかならないからです。

この決断というものが人間を底から支えるものとなるのです。

他者の実存
しかし、この決断にあたって人間の助けになったものがあります。
この決断のあたって決定的な役割を演じたものがあります。
それは他者の実存、他者の存在、つまり、他者が示す模範です。

それはなにを書きしるすよりも効果がありました。
というのも存在はいつも、言葉よりも決定的だからです。

その決断の助けとなるのが

他者の存在

他者の模範となる行動ということです。

希望を持ち続ける他者の存在は心強い存在です。

・・・
確かに模範になる人間はわずかです。
自分の存在を通して働きかけることができる人間、
また実際そうするだろう人間はわずかです。
・・・
ある古い神話は、
世界の成否は、
その時代に本当に正しい人間が三十六人いあるかどうかにかかっているといいきっています。
たった三十六人です。
消えてしまいそうなぐらい少ない人数です。
それでも、
全世界が道徳的になりたつことが保証されるのです。
しかしこの神話はさらに伝えています。
こうした「義(ただ)しい」人たちのうちのだれかが、
それと認められ、
まわりの人々、一緒にいる人間たちにいわば「見破られる」と、
そのとたんにその人は消えてしまうのです。
「引退」させられるのです。
その瞬間に死ななければならないのです。

これはどういうことでしょうか。
こう表現しても間違いではないでしょう。

人々は、そういう人たちが模範となって自分を教育しかねないと気付くと、
「いやな気持ちになる」のです。
人間は教師口調で叱られたくないものです。

模範となる義人は見破られると

その瞬間に死ななければならないという

人間の醜悪な本性があります。

明らかになったこと
こうしてすべてのことは何を意味しているのでしょうか。
これまでのところから、
どのようなことが明らかになったのでしょうか。

それは、二つのことです。
まず、
すべてはひとりひとりの人間にかかっているということです。
おそらく、同志は少ないでしょう。
しかし、それは重要なことではないのです。

義人の存在はその数が少なくとも

その存在と行動で人々を勇気づけていくということです。

そしてつぎに、
すべては、
創造性を発揮し、
言葉だけでなく行動によって、
生きる意味を
それぞれ自分の存在において実現するかどうかにかかっているということです。
したがって、
そもそも問題なのは、
最近の否定的なプロパガンダ、「生きる意味がない」と唱えるプロパガンダに反対して、
別のプロパガンダを開始することだけです。

このプロパガンダは
第一に個人的な物でなければなりません。
第二に活動的でなければなりません。
そうであってこそ、
このプロパガンダは現実的であることができるのです。

その自分の存在意義においては

個々において具体的なことを見つけていくことで

生きる意味となるということです。


何のために生きるのかを

究極的に考え出していくことが必要だというのです。


そして

その生きる目的において

行動に移し

現実的なものしていくことが重要なのです。


そう考えて行動することで

生きる意味を持つことができるというのです。


それは今の生活の中にも

十分に通用します。


生きる目的が

今を生きること自体で十分だと

思うのです。

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