テーマは決めにいかない。

十中八九の記事は、基本的にカメラマンである平林氏と、コンテンツを担当している僕の2名によるいわばユニットのような形でコツコツ記事を積み上げていっている。

もちろんデザインをしてくれたデザイナーとコーディングを担当したコーダーの力なくしては、あのような自分たちの想像よりも素敵なサイトデザインやとても読み込みの速いサイトづくりは出来なかっただろうと思う。

テーマを決めてから行く取材と、テーマを決めない取材があるとしたら、僕らが十中八九でやっていることは、後者になる。テーマを決めてから臨む取材のほうが遥かに楽だ。それこそ自分が聴きたいことだけを聴いたらいいからだ。でもちょっとそれは虚しい気がする。

いま、自分が話を聞いてみたい人や、ちょっと面白そうな人に話を聴きたいから、そんな人の会いに行く十中八九の取材は、すべてが恐ろしいまでにインプットの経験にしかならない。つまりそれは仕事がすべてインプットの時間になるという贅沢な時間の使い方に他ならないわけで。

あくまで聴きたいことだけに焦点を合わせるのではなく、そこで出てきたワードに耳を傾けることが好きだ。例えば思ってもみない言葉が飛び出したとき、そこに瞬時に反応出来るかどうか。

自分にはない感覚を、どう自分が持っている経験値の近似値で理解して打ち返せるか。

編集とは集めて編むものであるならば、書くことも編集と同時に行なっている自分としては、その場ではそれを集めることに終始しているんだろう。

そのため、まずいろんな話を聴き、そこからテーマを決めていくような流れをつくる場合が多いような気がする。うまく形容出来ないが、話をしているなかで薄っすら見えてくるようなことがある。それを軸にコンテンツの中身を構成していくことが多い。

小国さんのインタビューの場合も、「余白」という十中八九のキーワードの1つから話が拡がることがあった。それをどのくらい汲み取っていくのかも、十中八九のなかでは重要な要素だと捉えている。

一方でよく言われることは、けっこう多岐にわたるような話をすることが多く、どうまとまるか分からないという声もいただく。これは十中八九より以前も僕自身は言われることが多かったことで、よく言えば以前からずっとスタンスが変わらない。

個人的な理想は、雑談に近いような形で話を聴き、話題を振り、そこからちょっと光る言葉をどれだけ採取出来るか。そしてそのどれかがきっとテーマになるような言葉なんだろうと感じている。それが本当に輝く言葉なのかは、本人というよりは取材する側のこちらの判断になる。

自分で何かを気づくってことももちろん大事なこと。でもその人は当たり前だと思っていることが、実は他の人から見ると全く当たり前じゃないケースも往々にあり、そういうポイントも何気ない会話の部分から引き出せたときは嬉しい。

だから、あくまでまず引き出す、聞き出すスタンスを優先しているため、出来るだけ終わった後にテーマは決めようと思っている。

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