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新しいものより古いもの。なのかも。

中身がないかも知れない人がやりがちなことは、常にマグロのように新しい概念?をずっと持ってこないといけないのだ。ワールドカフェやワークショップもその類だろうか。たぶん中身違うんやけど、結局中身が一緒のことを名称変えただけで再リリースみたいなことが往々にしてある。

新しい概念めいたものが持ち込まれるたびに、その前まであったその概念めいたものはなかったことにされる。強がってやっているとか何だということもあるけど、だいたいの場合は忘れ去られていってしまう。実に虚しい。そんな死屍累々のうえに中途半端な施策が成り立っているのなら、本当に税金も無駄遣いだなと思う。

だからこそ、横井軍平氏の「枯れた技術の水平思考」の概念は本当に素晴らしい。新しいものを"わざわざ"持ってくるんじゃなくて、あ、この機能これに使えるよねってものを横展開してくる。それがエポックな製品なんかになるわけだから痛快だ。そしてそれらは結果をしっかりと残している。

だから結局分かるのは、新しい技術や概念を闇雲に使うことではないってことだ。何をやりたいかに対応するものを、別に新しくもなくて良く、それに相応しいものをしっかり展開をすることが一番大事になる。

それを見つけてくるのがうまい人がイノベーターに違いない。ただ新しいものが好きな人は単純にミーハーなだけだ。新しいものを展開するだけって誰でも出来る気がしていて。だって持ってこればいいだけだし、それっぽい振る舞いで。それこそ○○のほうから来ましたーに近い何かだと思う。

そうではなく、これに絶対必要なものはこれで、と役割がしっかりと規定さえされていれば、別に新しいものに関わらず使えるような概念や考え方、やり方は存在する。むしろ考え方に至ってはアリストテレスの時代から変わらず、観阿弥・世阿弥の考え方も現代に至るまで全くその真なるものは未だに通用するに至る。

技術革新は起こりうるけれど、ヒトの感受性や考え方、パターンは大筋ミリ単位でしかアップデートされずに現代までやってきてしまったのだろうか。数千年前のころから変わらない何かを持っていることが良いのか悪いのか、それは僕自身にも分からない。

温故知新なのかも知れない、実は一番大事なことは。うまくミーハーな心と古き良きをコングロマリット出来れば、よりよいことが考えられる素地が出来るに違いない。それをどのように形成するかは、まだまだリテラシーを上げることでしか解決が難しい。

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