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短歌・随筆「公共」

際で待つ横断歩道 眼前でまつ毛を掠める2tトラック
海なのか青空なのかたくさんのきらめきのなか浮かない身体
すれ違うバスに乗ってた人に「その帽子いいね」が伝わった夜
椅子があるはずのところに箱がありそれでもいいと踏み台にした
残高が0円になったSuicaこそ次の世界への切符 バイバイ
いつの日か横断歩道ですれ違い「おっ」て言うかな 「あっ」て言うかな

僕は信号待ちのとき、生命の危機を感じたことなんて一回もない。眼前を鉄塊が通り過ぎているのに。電車を待っている時もそう。(すこしだけ後ろを気にしたりするけど)

昔、池袋で信号待ちをしていたときの話。みんながじっと信号が青になるのを待っている中、何と表現するのが適切かわからないが、障害を抱えた方が奇声をあげながらフラフラと周りの人にぶつかっていた。でもその人も決して道路には出ない。「周りの人にはぶつかるのに、赤信号はきっちり守るんだな」なんて思いながら、少し身を遠ざけた。その人に無かったのが知能なのかモラルなのか社会性なのか僕にはわからないけど、少なくとも生命の危機を避けることは本能なんだと実感した。

「ここにいれば安全だ」と思う。人はたくさんの安全地帯を持っていて、横断歩道の白いところだけをぴょんぴょんと渡っていくように、安全な場所で生き移ろっていく。

目の前を過ぎ去るたくさんの光を、最近いきなり視力の悪くなった目でぼんやりと確認する。信号待ちをしている時の視界はなんだか芸術的で、一枚の絵のように思える。うねる人と、統べる信号機。前景と背景の間に一体の怪獣がいて、生きた潜水艦のよう。道路の海に潜り地上をコントロールする大きな存在を、みんなが街と呼んでいる。そこはみんなにとって安全地帯らしい。

青信号になる。散り散りになる人たち。絵画は瞬く間に現実になり、僕はそこを縫うように進む。各地で集まっては散っていくそれは雲みたいで、それならばこの街の空は灰色だった。

僕は歩いてバス停へ向かう。

病院に行く時はバスを使う。電車と電車がすれ違う時の一瞬の衝撃と違い、バスとバスがすれ違う時のそれはとても甘く逢瀬のようだ。その日、すれ違ったバスの中に自分がいた。古着屋で買った300円のニット帽は、その値段でなければ選ばなかっただろう黄土色。無彩色の中、特別映えるそれを見て「かわいいですね」と目配せをする。向こうの自分は随分楽しそうにバスに乗っていて、きらりと目を光らせた。空を行き交う公共交通は、雲の合間を縫って目的地へ向かう。

今日、診断書が出て、また休職期間が延びてしまった。

1月半ばにかかった流行病、軽症で済んだし後遺症という後遺症もないけれど、元々生き物としてのバランスを崩していたところに降りかかった病だったこともあり、それ以降すこぶる調子が悪い。振り出しに戻ってしまったようで目の前が真っ暗になる。でもこの半年で見つかったものもあるし、また何かが見つかるのかもしれない。

短歌に出会って自分の感覚と向き合った。周りを巻き込んで遊んでみた。それがこれから確かな形になる。次は何で遊ぼうか。道具も手段もなんでもよくて、自分は楽しければなんでもいい。短歌を詠むことも、バンドをすることも、体調を治すことも、会社で再び仕事をすることも、「楽しい」への足がかりの一つでしかない、のだと思う。

病院から帰る時は電車を使う。時間に縛られた移動の場合は最短経路を使う他ないけれど、そうでない場合は自分のペースで、自分の気の向くままに歩きたい。と言っても毎回同じ道を通ってしまうけど、それが自分の気なのだから仕方ない。帰り道はいつも自由だ。

電車に乗る。どこかへ行く時は必ず通る場所を、なるべく好きでいたい。自分の住む街を、歩く道を、通る改札を、乗る電車を、車窓から見る空を好きでいたい。体は怠く動きは鈍いが、僕はこの舞台が好きだった。幸運にも、そんな自分のこともまだ好きでいられている。橋を渡る公共交通から海を見下ろしながら目的地へ向かう。

改札を出る時、Suicaの残高が0円ぴったりになった。
レシートの合計金額が777円になった時のように、当たり付き自販機で当たりが出た時のように、何の意味もなく自分を高揚させる瞬間。(別にその瞬間に2本目の飲み物なんて要らないし、僕はなんでも選ぶのが苦手だ)

「またすぐにチャージしておかなきゃ」と思う反面、自分を縛り付けるものが一つだけなくなったことに、自分の心はとても軽やかな気分になる。このままこのSuicaを捨てて、次はICOCAでも使おうかしら。そしたらいつか関西まで、久々に切符を買って向かってみよう。安全なこの街で、この気持ちだけで今は十分だった。それが悲しかった。

帰り道、自分と横断歩道ですれ違った。行きのバス以来の意外な再会に思わず声が出て、顔を伏してしまう。その声は、文字にするならどんな音だっただろう。僕は僕に何を思っただろう。

横断歩道の白い部分を、雲から雲に飛び移るように渡っていく。
2月の外は寒く、黄土色のニット帽が少し羨ましいことだけは確かだった。

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