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短歌・随筆「春について」

雨のなかビニール傘に落ちてきた桜に気付く いっしょに帰る

 思い出にしたくてもできない距離で君の香りの変化に気付く

雪道のように桜の積もる道 でも足跡は付いてくれない

 あの頃のままの優しいあなたから稲の絵文字が送られてくる

今日もまた背中を濡らし先を行く 傘の情緒に振り回されて

 いつまでも私の変化に敏感な君は画面の向こうを知らない

家に着き畳んだ傘に挟まった桜は栞 季節は続く


その日は雨が降っていた。
でも、その友達は雨なんて降っていないみたいに歩く。

散歩をするのが好きだ。
知っている道を歩くのもいい。思い出というにはあまりにも微かなそれがふわっと香って、ちょっと安らかな気持ちになったりする。
気が向けば知らない道も選んでみる。知らない花が咲いていて、「自分は名前を知らないままこの花を忘れてしまうのかな」なんて思いながら写真を撮る。写真からもなんとなく匂いがする気がしたりする。

春に出会う花は、みんな春みたいな色をしている。

なんてことない話をしている間も僕たちは確かに歩みを進めていて、気付いた頃には随分遠くまで来ていた。
「ここ、知ってる」と騒ぐ友達。昔付き合っていた人と過ごした街だという。
街にこびり付いた柔軟剤の匂いは、確かにあった生活とその幸せの匂いだ。
神の思し召しで辿り着いたこの街を再び歩く。
友達は少し複雑そうに、確かにあった幸せを笑って話してくれた。

今でも自分を気にかけてくれる大切な人の話。
別れた途端、あっという間に知らない匂いになったその人のこと。
人の気も知らずに投げかけられる何気ない言葉に振り回された夜のこと。
口に出すのも恥ずかしい二人だけの愛の言葉。
情けなく、恥ずかしく、誇らしいそれを話す友達が、
子供みたいで、でも確かに大人で、ちょっぴりかっこよく思える。

そういえば、僕はどうやら傘の差し方が下手らしい。
友達が、背中がずぶ濡れになっていることに気付かない僕の傘の羽を掴んで、ぐいっと位置を直す。
「それはどうかと思う」と、多分お互い思っていただろう。(いきなり傘を掴まれると、人は結構びっくりする)

まるでそこに居る誰かを入れてあげようとするみたいに、僕は無意識に傘を差し出していた。
だって、一人で入る傘は寂しいじゃないか。
片側の肩が濡れていく感覚に充実感を覚えるのも、エゴだと分かっている。
でも、傘は愛する人に差すものでしょう。
左右対称なだけが美しさじゃないということも、さすがの僕だって分かっているのだ。

大好きな人のことを思い出す。
うまくいくこともあれば、うまくいかないこともある。
「そっちが"ちゅこ"ならこっちは"大すっち"じゃ!」なんて笑っていても、
靴はもうびちょびちょで、そういえば背中もびちょびちょで、
知らない道を歩く自分は少し弱気になっていたかもしれない。

「受け入れるとか、許すとかじゃないよね。愛っていうのは」
友達がおぼつかない言葉で、やけに芯を食ったことをいう。
ああそうだ。こいつは何に向かうにも笑っちゃうくらい誠実で、
今もぬかるむ道を、雨なんて降っていないみたいに歩いている。

そうだよね、なんて言いながら少し後ろを着いていく。
「こっちに進めば駅の方だから」なんて頼もしい言葉を発しておいて、
まったく逆方向に歩みを進めていたことに後から気付いて笑ったりして、
ああ、そういえば春ってそういうもんだよな、と僕は嬉しくなる。

春の夜の寒さも、桜の花びらの白さも、愛おしく苦しい匂いも、
春が来るたび思い出し、春が過ぎれば忘れてしまう。
もし季節が巡らなかったなら、今日という日も思い出せないかもしれないけれど、
この毎日の続く先に再び春が来るなら、またあの街を歩いてみようと思う。

まだ少し肌寒い夜に桜は少しずつ散り始めていて、
街灯にきらめく雨粒すら散りゆく桜に見えた。

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