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自らの反省から考える、帰国生が日本で苦戦しがちな事

子どもがインターに在籍していると、自分が元帰国子女である事が度々発覚するのだが、その際に度々生い立ちの話になる。よく聞かれる質問の一つが「帰国した時に何に苦労したか」という点である。

以前の記事でも紹介した通り、帰国生といっても千差万別ではある。全員共通して、とは間違っても言えないが、自分が帰国してから長期に渡って苦戦した点・気をつけていた点について挙げていきたいと思う。

ポイント① 英語能力で天狗にならないよう注意が必要

英語をいわゆる「ペラペラと」喋れる事は、日本においてはまだまだマイノリティであり、国内においては確実に特技と言えることの一つである。むしろ英語を流暢に話せずにコンプレックスを抱いている親世代の人間は多く、だからこそ我が子が英語をペラペラと話す姿をみては「すごいすごい!」と褒めて育てがちである。そのためか帰国子女は英語が喋れるという事にに関しては天狗になりやすいのだが、元帰国子女としては、我が子の自信が過剰にならないよう気をつけたいと思っている。

なぜ天狗にならない方が良いかというと、理由は2つある。

一つ目の理由は、帰国子女の中には常に「上」がいるからだ。たとえ自分が5年間海外で暮らしてペラペラになったと思いこんでいても、生まれてこのかた海外で育ってきました(しかも日本語も完璧)、といった子女もゴロゴロいる。しかも賭けても良いが、超長期間の帰国子女ほど自慢などしないし、聞かれない限りは自分からは歴を話さないような人が多い。そんな事は梅雨知らず、鼻息荒く英語自慢をしてしまった所を想像してみてほしい。シンプルに恥ずかしいし、後で事実を知った時に最も後悔するのは自分である。

2点目は、自信過剰になると英語はただのツールであるという事を忘れてしまうからだ。英語は確かに喋れると何かと便利だが、それでその人の思考力自体が深まる訳ではない。人としては、何を考えるか、なぜそう考えるか、どう行動に移すか、という点が最も重要なのであり、その上でそれらを英語でも表現できると素晴らしい、という順番である。

いわば、「英語喋れるんだよ!」という状態は「エクセル使えるんだよ!」という状態と同意義であると思っている。立ち話程度の浅い会話であれば、すごいね!となるかもしれないが、、、実際に重要なのは、ではそのエクセルを使って何をするのか、という点である。英語を喋れる事に自信過剰になっていると、「じゃあその英語を使って何ができるのか」というその先の課題を見失いやすいように思うし、やりたい事は本当は別にあったとしても、自分の職業を英語関係に限定しがちだ。「ゆくゆくは国際弁護士になりたい」など、明確な目的を持って努力を続けているような帰国生に合うと、自分の自信が一瞬にて塵と化す。そうならないためにも、英語を喋る事自体が目的にならないよう意識していきたい。

ポイント② 日本の行儀

帰国した時に苦戦する2つ目のポイントとして、行儀が予想される。日本では公共の場所では「品よく」いる事が理想とされ、そこから外れる行為は自然と注目を集める。しかし、東南アジアにはこの緊張感がまるでない。多人種の環境で育つと、いちいち人の違いに注目しないため、ガニ股で歩いていても、パジャマ同様の格好で歩いていても、チラッと見られる事はあってもジロジロと観察される事はない。

こういった環境で育つと、自分は他人に注目しないし、注目される事にも慣れずに育つ。しかし日本では座り方一つとっても足を組まない、足を開かない、貧乏ゆすりしない、肘はつかない、といったNGが数多く存在し、「正しい」姿勢で居続けることは帰国生にとってそれなりにエネルギーを必要とする。あまりに野放しで育つと、帰国した時に日本の行儀に馴染むのが少々大変である

行儀はいずれ日本に帰った時に矯正されていくが、帰国して20年経った自分でも、公共の場所ではいまだに猫をかぶっているような感覚がある。特に親になってから行くようになった日本の学校の「保護者会」ではおそらく通常の保護者よりもかなりエネルギーを消費している。自分ではもはやコスプレ&別人格だと思っており、帰宅した後は一切動きたくなくなるほど疲れてしまう。シンプルに、帰国した際に生きづらくなってしまうのだ。

予防策は難しいが、せめて食卓上のルールくらいは子供に徹底してあげたいと思っている。美味しい日本のレストランに行く時にガチガチに緊張しなくてもよくなるよう、日頃から姿勢やはしの使い方などには十分気をつけて指導していきたいと思っている。これは、何も清く正しくいてほしい!という訳ではなく、日本に住んだ時に息苦しいと思ってほしくないからである。逆説的なのは重々承知の上だが、高山トレーニングを行なっていると思い、頑張りたいと思う。

ポイント③気遣いを頑張る。日本人同士の気遣いは本当に難しい。

全世界共通かはわからないが、欧米やインターでは「自分はどう思うのか」とを常に問われ、自分の意見をどう表現するかについて日々鍛えらえる。また、受け止める側としての教育もされるが、それは主に「嫌だと感じた時の断り方」、つまりNOの言い方へのフォーカスである。日本と違い「自分の行動に対し他人がどう思うか」の予測、いわば「気遣い」についてはあまり教育されないのだ。

日本の国語の教科書を読んでいて思うのだが、日本の国語で求められる「読解力」は非常に特殊であると感じる。日常的に登場人物の心情を読み取る事を求められるし、俳句や詩では行間の意味や当時の背景をいかに読み取るかが重要である。日本人の協調性がズバ抜けて高いのは、こういった見えない事情を察知する、という事を小さい頃から鍛えられてきた教育の賜物なのだろう。

反応を予め予測しない事に関しては、メリットもデメリットもあるので一概にどちらが正解とは言えないと思っている。メリットとしては「忖度が発生しない」「思い込みによる勘違いが減る」「悪習が引き継がれない」「発生した事実だけにフォーカスできる」等であり、デメリットとしては「衝突が増える」「無神経であると思われる」「変な行動・空気が読めない行動が増える」等が挙げられる。事実として、日本はお互いの「察する力」が育っている前提でコミュニケーションが成り立っており、この能力のおかげで世界有数の安全な国が成り立っているとも言えるので、日本人としての特徴を丸ごと削ってしまうのもまた味気ないように思う。

もちろん学生時代はさほど気遣いは必要ない(というより、気にするような人間とは距離を取れる)が、社会に出てからはそういった「気遣い」が幾度となく必要となってくる。自分も幾度となく、えーーい、めんどくさーーーい!!!と投げ出したくなったが、自分が気にしないからと言って他人も気にしない、という事にはならないのだ。(独特の文化に耐えられず、結局海外に言ったり外資系に転職する知り合いは多い)世界スタンダードとしては察知しないのが当たり前な中、どこまで日本人として馴染んだ方が良いのか、という問題は帰国生としては本当に難しい問題である。

ポイント④「まあいっか」では済まされない日本社会

海外、とりわけ東南アジアでは例えミスをしたところで「あっごめーん!」で済むし、大抵の場合相手も許してくれる。むしろシステム設計自体、人がミスする前提で作られているし、使う方もエラーが出た所で「問い合わせしよ〜」という前提で使う。ミスの報告を元にどんどん改良を重ねていくので、本当の意味でシステムが完成するのはリリース後しばらく経ってからだったりする。

かたや日本では、初めから完璧さを求められる。自分がミスをしないよう細心の注意を払って気をつけるし、他人のミスに対しても非常にシビアな評価を下す。履歴書や願書で一文字も間違えないのが美徳とされるような文化は少なくなってきたとはいえ、2023年現在でもその風習は至る所に残っている。

個人的にはミスを許容している文化の方が、ユーザーの実体に寄り添った設計ができるし、何よりもお互い精神的に健全でいられるので好きだ。しかし、この各々の「ベストを尽くすのが当たり前」という気概があってこそ、1分違わぬ正確さで電車が到着するといった質の高いサービスが成り立っているとも思うので、ここもまた、文化の違いの一つである。「帰国生なんですんませーん⭐︎と明るく開き直れるポジションを確立できれば怖いもの無しだが、とは言っても大事な局面ではきちんといつもの倍気を付けなければならない、と言う認識は持っておいた方が良いかもしれない。

おわりに

以上が、海外で暮らした子どもが日本に帰国した際に苦戦するであろうポイントだ。音読がしんどいなど、短期的なものについては書ききれないほどたくさんあるが、それはまた別の機会に紹介しようと思う。上記にも述べた通り、苦戦するからと言って必ずしも日本に寄せに行く必要はないが、知っておくだけでもショックを和らげる事ができるだろう。

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