-海辺のかに3-これからも
遠くの方でお囃子の音がする。
うっすらと目を開くと、木の葉の影がゆらゆらと天井に映っていた。
傾いた陽に照らされた木の葉が、薄い緑色の影を作っている。
体を起こし広い窓に目をやると、下の小川が光の粒を受けてきらきらと揺らめいていた。
ああ、しまった、と思った。
お腹の満たされた正午に身を預けたベットがふわふわと洗濯したてのように柔らかくて、案外にも気持ちよくて、夕方になるまで眠ってしまっていたらしいことを悟る。
ベットの気持ちよさのせいにしながら、でも久しぶりのこんな休日も悪くはない、なんて思って遠くの林太鼓の音に耳を傾ける。
夕陽が部屋を明るく染め、夕方の涼しい風が薄いカーテンと私の頬を撫でた。
*
「お祭り?そんなの、今日やってないよ」
杏子はビールの入った汗のかいた冷たいジョッキを持ち上げ、一息に飲んだ。
「でも、確かに夕方に聞いたよ」
「菜津がいつも東京にいるから、分からなくなっちゃったんだよ。それか相当寝ぼけてたか。うん、きっとそうだよ」
杏子は妙に納得した表情になって頷き、それからは別の話になった。
杏子の話に頷きながら、まだ私は夕方に聞いた夏の音が頭に引っかかっていた。
何だったのだろう。
でも、確かに空気に溶け込むように心地よく耳に響いたその音に現実味はなく、ふわふわとした夢心地のなかで聞いたような音だった。
綺麗だったなあ。
梅味噌につけられたきゅうりを見つめていたら、子供のころの記憶が磯の香りとともにふわりと蘇ってきた。
*
磯の香りのする、海の近くの真っ赤な屋根の家。
落ち着いた色合いの家々と海の青い街に、はみ出しまくりでべた塗りの鮮明な赤色が目立って、幼いながらに私は恥ずかしかった。
よく「菜津ちゃんのおうちはわかりやすいからね」と待ち合わせ場所の目印に使われたものだ。
そんな屋根を、お母さんは「お父さんが塗ったのよ」と愛おしそうなものを見るように、眉を少し困らせてよく言っていた。
お父さんは私が6歳の時に亡くなった。
丁度、私が来年小学1年生になる年だった。
お父さんは私の手を引いて、ピカピカの真新しい、家の屋根の色と全く一緒のランドセルを買ってくれた。
そして私がそのランドセルを背負った姿を見ることもなく、真新しいランドセルを綺麗に残したまま空に行ってしまった。
お父さんは、毎朝出かける海沿いを散歩している途中で溺れた近所の子供を助けようとして、大きな波に呑まれてしまった。
海が大好きだったお父さんが建てた小さな家のなか、突然私とお母さんは2人きりになってしまった。
明るく元気だったお母さんは私に笑顔を向けた後、いつも少し悲しそうな、今にも泣き出しそうな顔をするようになった。
お葬式の日、お父さんの綺麗な横顔を見た。
白くて、艶の無くなった唇は乾燥していた。
今にも「おはよう」と起きて私をぎゅっと抱きしめてくれそうな、そんな柔らかな寝顔だった。
寝息が聞こえそうでそっとお父さんの顔に耳を近づけてみたけれど、なんの音もしなかった。
ただ、眠っているお父さんの顔に伸びてきた髭を見てはお父さんは生きていると、そう思っていた。
お母さんは棺の前にずっといる私のことをぎゅっと抱きしめて、声を上げて泣いた。
「お父さんはね、もういないの。ごめんね、なっちゃん」
私の肩はお母さんの涙で濡れ、柔らかくて温かい体温のなかにお父さんの大きくて温かい背中を思い出して、私も泣いた。
それからのことはあまりよく覚えていないけれど、あっという間に2人きりの生活になってしまった。
お父さんが好きで建てた家のあちこちには散歩で拾ってきた色とりどりの貝殻が散らばっていた。
海の匂いが漂う家は、お父さんの笑顔をいつも私たちに思い出させた。
「お父さんはね、あのずっと向こうのもっとすてきな海の世界に行ったのよ」
紫色がだんだん薄くなる空の下、海の見えるガードレールの前で私の手を握りしめたままお母さんはそう言った。
遠くに見える地平線が、かすかな優しい色を帯びて揺らめいていた。
「お空じゃないの?」
お母さんの横顔は、綺麗で逞しかった。
あの日泣いていたお母さんは、一体どこに行ってしまったのだろうというくらいに。
「違うよ。お父さんはもともと海に住んでいた人でね、海に帰っていったの。お父さんはやっぱり海での生活が良いみたいね」
目の先で光の粒が水面に反射し、ゆらゆらと踊っていた。
「いいなあ。今頃、お父さんはきっと美味しいご馳走を食べているのね。きっと、大きくて甘い蟹をたらふく食べているよ。さあ、私たちも帰ってご飯を食べよっか。今日はなっちゃんの大好きなグラタンにしよう」
私に満面の笑みを向けたお母さんは、その日から私の前で悲しそうな顔をすることは無くなった。
でもずっと、お母さんはお父さんの思い出話を私に楽しそうに聞かせてくれた。
まるで少女のようだった。
「お父さんは本当にすごい人なのよ。透き通った瞳でね、いつも浜辺に座って海のずっと遠くを眺めているの。ずっと遠くの街が海と繋がっていてすっと視界が広がって、そこに住む人が見えるんだって。蟹を売っているおじさんが見えるってお父さんが言ったときね、お母さんはお父さんのことが好きだと思ったの。だって、遠くに生きている誰かの人生が見れるって、とても素敵なことでしょう」
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