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読書感想文:『王とサーカス』

米澤穂信『王とサーカス』(創元推理文庫)

海外旅行特集の仕事を受け、太刀洗万智はネパールに向かった。現地で知り合った少年にガイドを頼み、穏やかな時間を過ごそうとしていた矢先、王宮で国王殺害事件が勃発する。太刀洗はさっそく取材を開始したが、そんな彼女をあざ笑うかのように、彼女の前には一つの死体が転がり…… 2001年に実際に起きた王宮事件を取り込んで描いた壮大なフィクション、米澤ミステリの記念碑的傑作。(裏表紙より引用)

  ※物語中盤までの内容に触れる部分があります。

 幼少期から、文字を読むのが好きだった。図書室の児童書からお菓子のパッケージ裏まで、文字があったら何でも読んだ。そんな僕を見て、母親はスクラップブックを作ってみてはどうかと提案してくれた。毎朝届く新聞をパラパラめくり、気になった記事を切り抜いてノートに貼り付けるのだ。これがやってみると案外楽しく、しかも親が褒めてくれるものだから、僕は新聞を毎日開く勤勉な小学生になった。

 その頃から僕は漠然と、自分は「伝える仕事」をするのだと思っていた。もちろん当時はマスメディアという英単語の意味すらもよくわかっていなかったが、情報を多くの人に知らせる仕事は格好良く、崇高で、「社会の役に立つ」のだと無邪気に信じていた。そんな考えが変わっていったのは、大学に入学して少しずつ視野が広がり始めた頃だったと思う。

 マスメディアは確かに社会の役に立つことがある。しかし、それは決してマスメディアの目的ではない。マスメディアの目的とは、情報を伝えて利益を得ることだ。考えてみれば当たり前のことで、仕事とは金を稼ぐことなのだ。その姿勢を悪く言うつもりはまったくないし、利潤追求と社会正義は時に両立するとも思う。しかし、より多くの人々の感情を刺激するような情報を探し出して提供し、それによって金銭を得ようとする営みが、幼心に憧れていた報道の在り方とは異なっていたのも確かだ。

 人は知ろうとせずにはいられない生き物だ。そして情報を欲する人々がいるのだから、情報を与えて利益を得る職業が現れるのも当然のことだろう。しかし、その責任を彼らは背負いきれるのだろうか? マスメディアが発信した情報は、個人のSNSとは根本的に異なる規模で人々の感情を刺激し、行動を引き起こす。その結果として発生するあまりにも重い責任を背負う覚悟を、僕は持てなかった。

 そんな僕とは対照的に、『王とサーカス』の主人公である太刀洗万智は、フリーの記者として「伝える」ことの重責に真正面から向き合うことを選んだ人物だ。全てのジャーナリストがそうなのかはわからないが、少なくとも彼女は、報道という営みの持つ影響力とその責任を自覚した上で記者という職業を選んでいる。しかし、そんな彼女でさえも、物語の中盤には価値観を揺さぶられ苦悩することになる。ある人物が、国王殺害事件について取材しようとする彼女に、こう告げるのである。

「タチアライ。お前はサーカスの座長だ。お前の書くものはサーカスの演し物だ。我々の王の死は、とっておきのメインイベントというわけだ」

 太刀洗はこの言葉に反論できなかった。そしてもちろん、僕もそうだ。なぜならこれは、僕が背負えないと思ったメディアの責任を厳しく問うものだったからだ。人々はいつでも情報を消費する。自分とは関係のない場所の悲劇を、コンテンツとして受け流してしまう。それが決して変えられない人間の本質なのだとしたら、情報を受け取る人々に罪はないのかもしれない。しかし、情報を伝える側はどうなのか? サーカスを主催して金を稼ぐ者は、他人の苦しみを売り物にする卑劣な存在ではないのか?

 『王とサーカス』では最後まで、この問いに対する明確な答えは提示されない。この小説は、ジャーナリズムの抱える矛盾を解消する魔法の書では決してなく、むしろ一貫してその矛盾に向き合い続ける苦しみに満ちたものなのである。そのため、この小説を読んでも僕はマスメディアに就職したいとは思えなかったし、報道という行為に対する違和感を拭い去ることもできなかった。

 ただ、太刀洗は悩みつつも職務を全うし、彼女なりのささやかな答えに辿り着く。その答えが正しいのかは誰にもわからないが、苦しみながらも最後まで真実を求め続けた太刀洗の姿に、僕は希望を見る。ジャーナリズムの本質が傲慢なサーカスの営業なのだとしても、この世界の姿を鮮明に示すために葛藤し続ける姿勢は、決して間違いではないはずだ。その在り方が深い部分で「社会の役に立つ」のだと、そう信じたいと思わせてくれる小説だった。

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