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成長のたび、また新たな壁にぶつかって

そういえば、と、指導教官への進捗報告を終えた帰り道、学内を歩きながら思う。

指導教官の言っていることが、以前よりもずっとわかるようになってきているぞ。

入学したての頃なんか、「何言っているのかもう全然わからないよう(泣)」な状態だった。
わからなすぎて、何からわからないのかもわからないから、質問すらできない。ただぽかん、と聞いているだけだった。

いまもたまに、ぽかん、はある。けれど頻度はぐっと減った。たぶん。
少なくとも、聞き返したり、質問したりといったコミュニケーションが幾ばくかは取れるようになった。

決して優秀とは言えない自分でも、修士から合わせて4年も毎日毎日やっていたら、成長するものなのだなあと、思ったりする。

***

一方で、自分の限界のようなものを感じることも少なくはない。

教科書や誰かの論文を読んで、知らなかった事柄を学んだ後、「どうやったら、私がこの事柄を発見できただろうか」と考える。
まだこの事柄が明らかになっていなかったとして、何に気づいたら”私”がこの事柄を発見できたのだろうか、と。

聞けばなるほど、と思う。個々の知識は知っていたりする。
でもどう考えたって、私には思いつかなかっただろう。
そんなことばかりだ。

「読んでいる論文がトップ・ジャーナルばかりだからだよ」なんて慰めをもらうこともある。確かに、世界的な一流誌に掲載された論文は当然、クオリティが高い。それだけ画期的だということだから、ひよっこ学生が思いつかなくて当たり前なのだ。

そんなことはわかっている。

世界なり日本なりでトップを狙おうなんて思いはこれっぽっちもない。自分の能力が他の学生よりもかなり劣っていることだって、わかっている。

それなのに、なんなのだろう。
この悔しさは。悲しさは。やるせなさは。

聞いたらなるほどな、と思う。理解してしまえば簡単に思うことだってある。
それでも、自分が思いつけたかと言うと、否なのだ。どうして、先人たちはこれを思いつくことができたのだろう。どうして、私には思いつけそうもないんだろう。どうして、どうして、”わかる”のに思いつけそうにないんだろう。

***

そうやって、「何が自分に足りないのかなあ」と考える。才能だとか能力だとかセンスだとかのせいにしたくなる気持ちを抑えて、対処可能な範囲で足りないことを考える。

この4年間で指導教官ともいくらかまともに話せるようになったように、こういう自問を繰り返していたら、いつか「これは思いつけそうだ」が増えていくのだろうか。

そうだと、いいなあ。


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