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俺にもできたんだからお前にもできる→はあ?について

俺にもできたんだから、お前にもできるって。

皆さん人生で一度は言われたことがあるのではないでしょうか。
簡単に「あ、そうだよな。じゃあやってみようかな」と思ってしまうことが多いと思います。

僕もそうです。
簡単なことならいいんですよ。

個人の価値観やら生き方なんてものに抵触しない些末なことなら、
むしろ後押しになって頑張れるなんてことのほうが多いかと思います。

しかし、その「個人の生き方や働き方」みたいな
人間の根幹にある大事なものたちについて言及するときに、
この「俺にもできたんだから」論法を使われるのは、たまったもんじゃないですよね。

それで流されてしまってつい人生の重大な選択ミスを犯してしまったことがある、なんてかたもいるのではないでしょうか。

さっきも言った通り些末なことならいいんです。
ビビりの俺にも飛べたんだからお前もバンジージャンプ飛べるって!とか、
中学で英語の成績1だった俺でも英語話せるようになったんだからお前も…とか、そういう類のものならいいんです。

けれど、「この会社ブラックって言われてるし、実際残業多くて体育会系のノリのとこあるけど、俺でも辞めずに続いてるんだから、お前でもいけるよ。ウチに来いよ。」
なんてことで転職を決めることなんてないと思うのですが、
この類のものは絶対にNGですよね。

自分以外の誰かにできたからって、もしそれが自分より色々な能力が劣っていると見下している相手だとしても、
それが自分にもできるという証拠にはなりませんからね。


もちろん何事もやってみないとわからないし、チャレンジ精神に反対!なんて言いたいわけではありません。

まずやってみる。とりあえず飛び込むという姿勢の大切さはこれまでの人生で多少は学んできたつもりです。

しかし、なぜ他人にできるとわかったら自分にもできると思い込んでしまうんでしょうか。

人間ってもっと複雑じゃないですか?

もっと人の個性ってそれぞれ凸凹なはずです。

あの人にできることは僕にはできないけれど、
あの人にできなくて僕にはできることもある。


これが無限に、幾重にも重なっているのが人間社会というものではないでしょうか。

視点を逆にしてみましょう。
「お前にもできるさ。」と言われる側ではなく、
今度は「僕にもできたんだから」と言う側です。

私たちは、つまりは僕も、つい自分にできることなんだからきっと他の人にもできる、と思いがちです。

ですが、先ほどから述べている通り、そんなに簡単なことではないですよね。

自分にはできることができない人がたくさんいる。
かと言ってそれら出来ない人は自分より劣っていて、自分が優れているわけではない。

逆に自分ができなくて困っていることを簡単にやってのける人も大勢いる。
かと言って以下略。

そう。元来人と人はどちらが優れている、劣っているなんて決めることなんてできないのです。
強固な指標、その時代や文化、地域において大勢を占めている
考え方の物差しの存在があるからこそ、僕たちは「比較」ということができているのです。

「え~。お前英語のテスト15点かよ。俺95点だぜ」
「いや、俺この前カラオケの採点で97点出したから」

こんな会話が成立しないことは火を見るよりも明らかですね。

しかし、元来の純粋な、生まれながらの人というものはこうであったはずです。

上の会話が通じない、おかしなものだと私たちが思うのは、
「学業成績が良い」ことと、「歌唱力がある」ことは同じフィールドではない。
同じ指標、物差しではないと知っているからです。

この指標が無ければ、別に英語の勉強ができてもカラオケで高得点出せても、一様に「すごい」となるだけです。

これは、「できる/できない」の話だけに留まりません。

どう思うか」あるいは「どう感じるか」についても言えることです。

同じ絵を見ても、「なんて素晴らしい芸術作品だ」と思う人もいれば、
「こんなの子どもの落書きじゃないか」と思う人もいるでしょう。

「この前の部長のアレ、まじ不快だったよね~」
これも、万人がそうとは限らないでしょう。

まあ、至極当然なことですよね。

同じだけど、同じじゃない

「できる/できない」も「どう思う・感じるか」も、

見ている対象は同じだとしても、見え方は全て違う。世界はみな同じだけど同じじゃない。
例はいくらでも出せますよね。
例えば青い空を見てるという事実は同じだし同じものを見ているのだけれど、感じ方は違うということ。

同じ朝の満員電車に乗っていても、夜勤帰りの人は今からゆっくり寝れるぞ、とウキウキしているだろうし、
今から出勤の人は憂鬱かもしれない。

こうやって「同じだけど同じじゃない」に考えを巡らせると、
それぞれの人生にそれぞれの「ストーリー」があることがわかります。

なにか映画を見たり、小説の語り手になった気分になれる。
そうするとどうなるか。

心に余裕が生まれるのです。
みなそれぞれにストーリーがある、と思えると、
イライラが無くなるのです。

みんな同じ電車に乗ってるけど心持ちは違うし、
みんなそれぞれに違うストーリーを持っている。
そして、みなが異なるストーリーを持って生きているという事実は「同じ」である。
ということになります。

そうなると、少し人に優しくできる気がしませんか?

少なくとも僕はそういった気持ちになれます。
この考えも強要はしません。

同じじゃないですからね。

それではまた。

小野トロ

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