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少年サッカーと教育

昨日、空き時間に町のグランドで行われていた少年サッカーの試合を、グランドを囲う金網のフェンス越しに見ていました。

最初はただぼんやりと、「上手い子はいるかな」というくらいの視点で見ていたのですが、試合の途中で得点差が開き始めてから、あることに気づき、両チームの違いがどこにあるのか、という視点で観戦していました。

どちらも全国クラスの強豪チーム、という風には見えず、技術や体格の差は初見でもあまり感じられませんでした。

それでも、片方のチームが3点リードで前半を終えました。

先ほど言ったように、個人の技量には大差ないように見える両チーム。

では、どこに差があるのか。

僕が着目したのは、チーム内の空気、そしてそれを醸成する指導者の

「声掛け」の違いです。

負けているほうのチームのコーチは、ベンチから怒号を飛ばしていました。

と言っても、竹刀を持ってグラサンをかけて選手を睨みつける昭和のスポ根漫画のような風体でもなく、
爽やかな青年監督、という容姿と雰囲気のコーチでした。
父兄も見守るなかだったので、きっとその空間内にはあれを「怒号」や
「叱責」と捉える大人はいないということなのでしょう。

今の塾講師の仕事をしていても度々保護者の方から耳にする
「この子はきつく言わないと、管理されないとできないんで、厳しくしてやってください」の言葉。
親の悪意はないと思うのですが、いつも僕は
「それはあなた(或いは教師)がそういう子どもに育てたからですよ」
という言葉を寸前で飲み込みます。

話を戻します。

それでは、負けているほうのチームのコーチはどんな内容の声掛けを行っていたかというと、

①過ぎ去ったプレイの事を言う
②ミスの指摘が目立つ
③精神論が目立つ

簡単に言うとこの3つなのですが、具体的なフレーズとしては

「~しろよ!」
「~すんなよ!」
「今のは決めたかったなあ!」

などといった内容のものです。

これらの何が子どもたちにとってマイナスかというと、

①終わったプレイについて試合中にとやかく言われても修正できない
②似た内容でも否定形で言われると萎縮してしまう(言い方の問題)
③ミスを指摘されると萎縮してしまい、次のプレーにも影響し、悪循環に陥る

といったことが挙げられます。

このチームは、試合中の選手間の雰囲気もどこか殺伐としており、
ミスの責任の擦り付け合いや、味方のミスを責め合うような声掛けが目立ちました。
これでは実力差がそこまでなくとも勝てないのは明らかです。

加えて、あろうことかこのコーチは、3点ビハインドで前半を終えた子どもたちに
「走って戻ってこーい!」と叫んだかと思うと、
その直後に罰走を科し、グランドを走らせたのです。

令和のこの時代にこんなことをさせるスポーツの指導者がいるのか、
と唖然としました。
僕はアマチュアスポーツ界や部活に詳しいわけではないので
未だに普通の事なのかもしれませんが。
そうだとしたらもっとひどいですが。

ちょうど先日、中田英寿が中学3年の時に、
試合に負けた選手たちに対して監督から罰走を科された際に、

「試合に負けたことで走らせるのなら、試合に負けた責任は
 監督にもあると思うので、監督も一緒に走ってください」

と言ったことがある、という記事を読みました。
彼が中学3年といえば1992年、平成4年なので、それからもう30年が経とうとしています。

その他大勢の指導者はそうではなく、
僕が見たケースが稀であることを祈りますが、
30年経ってもそういう指導者がいることには驚きを隠せません。

そして次に勝ったほうのチームについて。

このチームのコーチはどのように子どもたちに声掛けをしていたかというと、

①終わったプレイよりも次に似たようなシチュエーションになった時にどう対処したらいいかを暗示させるような声掛け
②ミスを責めることはしない
③ミスをした時に他の選択肢を提案するような声掛け

この3つの特徴が挙げられます。

先ほど挙げたものと面白いほどに対照的なのがわかると思います。

このチームは勝っている状況ということを差し引いても雰囲気は明るく、
ミスを責める声掛けは子ども同士の間にも見受けられませんでした。

しかし、こちらのチームにも「そこは決めてほしいなあ~」という言動は見られ、あれじゃあ次にシュートチャンスが来た時に萎縮してしまうよな、と思います。

「ナイスシュート」「ナイスチャレンジ」とまずは褒めることで
次にチャンスが来た時に、叱責された場合と比較するとリラックスしてシュートを打てます。
まずチャレンジする姿勢を認め、褒めた後に
「でもパスの選択肢もあったよ」
と別の選択肢を提示する。この順番は間違えてはいけないと思います。
そうすることで「責められている」という意識から
自分のために「アドバイスしてくれている」という風に子どもの意識も変わるからです。

サッカー日本代表の積年の課題と言われる決定力不足、この課題ももしかしたら幼年期の指導の影響があるかもしれません。(他にも諸要因はありますし、そもそもシュートが決まらないことに対して「決定力不足」ということはNG、という主張も最近は見られ、僕も概ねそれに賛同なのですがここではそれについては割愛します)

ミスを叱責することやそれと類似の行為を取ることに関しては、
まさに「百害あって一利なし」です。

チャレンジをしてミスをした。
そのチャレンジした事実は忘れ去られ、結果だけ見られたうえで叱責される。
そのことが脳にこびりついて離れない。
その結果、筋肉がある程度弛緩した状態で臨むべきトラップやシュートといった動作を行う際に、
萎縮したことから筋肉は硬直しており、ぎこちない動きになる。
その結果またミスを繰り返す。
また叱責される。
これは恐ろしいことです。
子どもの可能性をも奪う行為です。

その子の練習量やひたむきさや身体的なものや持って生まれた才能、
それらはもちろんその子が選手として大成するにおいて欠かせない要素ではあります。

しかし、プロの選手にはなれなくとも、楽しくサッカーをする権利は誰にでもあるはずです。

練習しないから上手くならないんだ。

と思われているその子は、のびのび楽しく、チャレンジを受け入れミスを否定しない環境でプレイできていれば、プロで活躍する才能を持っていたかもしれない。

「下手くそ」なのは、もしかしたら練習不足ではなく、指導者のせいなのかもしれません。

近年、勝利至上主義に徹するあまり行われる選手の酷使について各アマチュアスポーツ界で議論されていますが、本当に良くないことだと思います。

大人や外野が煽り立てなくとも、勝敗の大切さや勝つことの大切さ、負けて得る教訓などは、子どもが自分たちで勝手に学び、得るものです。

「子どものために勝たせてあげたい」

これは大人のエゴに過ぎないことが多い。

そのことに気付いていない親や指導者が多すぎると思うのです。

子どものスポーツの現場に見られるこうしたミスの否定や叱責は、勝利至上主義や減点文化に基づくものであり、
これらの背景にあるのは、大人の社会にも見られる
結果至上主義、成果主義、生産性至上主義など、
資本主義の考え方に基づくものばかりです。

自分たちが社会の中で日々行い、息が詰まる思いをしているその考え方、
原理を、知らず知らずのうちに、子どもたちが好きでやっているはずのスポーツや習い事にまで持ち込んでしまっているのです。

海外礼賛、日本卑下ではありませんが、
サッカーの強豪と言われる国では、一発勝負のトーナメント形式ではなく、
リーグ戦が組まれ、常に「次がある」「反省が生かせる」場で子どもたちはサッカーを楽しんでいます。

そして日本のように、強豪校は部員数が3ケタいて、ベンチを外れたメンバーが大挙して応援に駆け付けるなんてヘンテコな現象はありません。
人数が多ければ複数チームが違うリーグや大会にエントリーすればいいとの考え方です。日本のようにAチーム、Bチーム、1軍2軍のような考え方は少ないと聞きます。

そして、海外のサッカー強豪国では、
上手かろうが下手くそだろうが、サッカー好きは生涯チームに所属して地元のリーグ戦でプレーする人が多くいます。
「生涯スポーツ」の概念が、別に政府が主導しなくとも、自然と存在するのです。

下手くそだろうが中年太りだろうが、プロを志していたが挫折した選手だろうが、サッカーが好きな気持ちさえあれば日常的に、生涯にわたってサッカーを楽しむことができる。

この、国民全体で、老若男女が、プロや競争の世界以外でも、スポーツを楽しんでいる人が多く存在するという在り方。

これこそ「スポーツの文化化」であり、強豪国との埋めがたい差なのだと思います。

そして最後に。

このスポーツにおける大人から子どもたちへの

「自己肯定感・挑戦する心の収奪」

は、少なからずその後のその子の人生影響を与えます。

現に僕が教えていた生徒にも、部活でサッカーをやっていたが顧問の先生の高圧的な態度が嫌になり退部、その後不登校につながっていったというケースがありました。

スポーツでもこうした状況が見られるということは、
学校の中でも当然類似の状況があることは充分考えられるのではないかと思います。

日々の成績、受験、スポーツ、部活動。

それらにおいて繰り返される「結果至上主義」

それのせいで子どもたちは楽しさを見いだせず、やる気を失っていき、

結果的には大人が求めていた「結果」は得られない。

悲劇のパラドックスです。

人間はやりたいこと、自分で選択したこと、楽しいと思っていることをしているときに、最大限のパフォーマンスを発揮する。

そんなこと、科学の世界においてとっくに明らかにされていることと思います。

「結果」を激しく求めた結果、「結果」を得られない。

得られないどころか、その後の人生にまでマイナスの作用をもたらす。

こんなバカバカしいこと、もうやめませんか?

今回も長くなりましたが、この辺で。

ご拝読ありがとうございました。

小野トロ




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