自己紹介~今さらですが、もかです~
今まで、「運も実力のうち」「しあわせについて本気出して考えてみた」など、エッセイ(風)の記事を公開してきた。しかしながら、よくよく考えてみれば自己紹介というものをまだしていない。どれも過去の一部を切り取ったようなものばかりだ。
そんなわけで、今回は生い立ちから含めて、「この記事を読めばもかのことがわかる!」という自己紹介記事を書いてみたい(知りたい人がいるかはわからないが、自分を見直してみるという意味も込めて)。
なお、終始重たい内容となっているので不快に感じるかもという人はゴーバック!
平成に生まれる
わたしは世にいう「ゆとり世代」ドンピシャの時代に生まれた。もちろん生まれたときのことは覚えていないが、さして裕福でもなければ特に食べ物に困るほどでもない、一般的な家庭に生を授かったと思う。
家のまわりには、同年代の幼馴染みが5、6人。いや、7人ほどはいたかもしれない。
みんながみんなアクティブだったので、それはとてもにぎやかな環境で育つことになった。家族ぐるみでピクニックをしたり、バーベキューをしたりというのはいまでも素敵な思い出として頭の中に残っている。
弟誕生!
わたしにはひとり、弟がいる。わたしが留学していたのでよく「弟さんは英語とかに興味はないの?」「お仕事は?」なんて聞かれるが、弟は最重度の障害(+身体障がい)を持って生まれてきた(まだ一度もTwitterで話したことはないが)。
ダウン症や自閉症などの一般的によく知られたものでなく、もっと珍しい障がいだ。
いまでこそ仲が良いが、そりゃあ嫌なこともたくさんあった。
弟は電車が好きで、電車に乗れば車内アナウンスの真似をするし、突然歌いだすこともある。基本的に人の前では静かにニコニコしているので人畜無害なのであるが、それでも思春期真っただ中の時期にはまわりの視線が気になってどうしようもなかったものだ。
まあ、なにが言いたいかというと「弟、大好き!」ということである(は?)。
ただし、仲の良さは弟か妹か、それとも兄か姉か、そして環境や障がいの度合い、親の対応などによってもひとりひとり違ってくるので、同様に知的重度の弟を持った知人なんかではいまだに「あまり好きになれない」という話も聞く。これは非常に難しく繊細な問題なのだ。
トラウマだらけの小学生時代①
以前公開した記事でもあるように、小学生時代は割とパッとしない“置いてけぼり”の毎日を送っていた。
でも、それだけじゃない。
わたしの父親は、ひどい人だった。あくまでも“主観的に”見てひどい人だったと思うだけで、客観的に見ればもしかすると「大したことないじゃん」「そんな人意外といるよね」と思われるかもしれない。
ここからは、“いまのわたし”を形成する父親の話を少しだけしていこうと思う。
わたしの父親は、大して強くもない酒をしこたま飲む人だった。ゆえに、酔っていないときの姿はもう思い出せない。
例えば小学校に上がり間もないとき、サボテンだらけの公園に行った。父親はどこにいても飲むので、運転はすべて母親の仕事だ。目的地に降り立ったはいいが、すでに足取りは覚束ない。
と、そんなときだった。父親が倒れていき、巨大サボテンの上に背中から突き刺さったのは。
父親の背中はまるで剣山のようにぶっとい棘だらけ。わたしは泣いた。ひたすら泣いた。父親が死んでしまうのではないかと思って泣いた。父親が好きだったころの話である。
それから、酔った勢いでよく暴言を吐く人だった。小さいころこそひどいことを言われた記憶はないが、母親に対してのひどい言動だけは覚えている。
小さなわたしと障がいを持った弟がいるにもかかわらず、一切の家事はすべて母親任せ。そのくせ「なんで働かないんだ!」「誰が飯を食わせてやってると思ってるんだ!」は常套句で、母が車の運転をしているときでも、渋滞にはまると「いいから進め!」「前の車にぶつかるぐらいいいだろう!(いや、駄目だろ……)」と後部席から運転席の背もたれを思い切り蹴る殴るといった光景を間近で見てきた。
それから「お酒飲むなら運動会も授業参観も来ないでくださいね」と言われるとすぐに「ごめん、もか。行けないわ」と半日もお酒を我慢できない父だが、そんなことはすぐに忘れてしまうので、酔ったまま運動会に来て木に登りだしたこともある。あれが父親だと思うと、恥ずかしくて顔から火が出そうだった。
トラウマだらけの小学生時代②
まだまだある。
例えば、年末年始。帰省をするのにいつも新幹線を利用していたのだが、その年は大雪で新幹線が止まってしまい、やむなく京都駅で一晩過ごすことになった。新幹線からまた違う電車に乗り換えるよう、駅員から指示がある。
ホームを移動しようとしたが、父はもうひとりで歩ける状態ではなかった(=酔っていた)。
母が「もか! ごめん、お父さんの手を引っ張ってあげてくれる?」と言う。素直に従うも、当然、小学生のわたしではむしろ父に引きずられてしまう。階段に差し掛かったときだった。
「もか、手、放して!」
母が叫んだ。半ば反射的に手を離したその瞬間、父は階段から落ちていった。たぶん、手を掴んだままだったらわたしは頭から地面に衝突していただろう。わたしはまた泣いた。ひたすら泣いた。なんだかわからないが、怖くて泣いた。
父は階段から落ちた格好のまま、眠っていた(腰から落ちたので、幸い擦り傷程度だった)。アルコールというのはおそろしい。神経を麻痺させる作用があるので、目を覚ました父はなにも覚えていないどころか、「なんか痛いなあ」と呟いた。
トラウマだらけの小学生時代③
こんなことは正直いくらでもあった。
でも特に記憶に残っていて、いまだに消化しきれていない思い出といえば、真冬の夜に、パジャマ一枚で靴も履かせてもらえず外に放り出されたことだ(これ、虐待になるから注意しようね!)。
きっかけは鮮明に憶えている。
父がある日、仕事帰りにメロンアイスを買ってきた。夜、母と弟が別室で眠ってしまってからテレビを見ていると、父がメロンアイスを冷凍庫から取り出して「ほら、これ食っていいぞ」と言った。
けれど、わたしは「いらない」と首を振った。小さいころからメロンやその味がするものが、少し苦手だったからだ。
すると途端に父が怒りだす。「俺が買ってきたものが食えないっていうのか! 誰が飯食わせてやってると思ってるんだ!」と、まあ、ここまではいつもどおりといえばいつもどおりの癇癪。
そのころになるとこれはもう面倒臭いことになると学んでいたので、渋々ながらメロンアイスを手に取った。でも、やはりどうにも口に合わない。そんなわたしの様子を見ていた父が、「美味いか?」と聞いてくる。わたしは素直に、けれども少しだけ表現を柔らかくして「あんまり……」と苦笑した。
父の顔が変わったのがわかった。
「俺が買ってきたものを……」からはじまり、話はどんどんエスカレートしていく。怒っているうちにテンションが上がってきたのか、最終的には「世界の裏側には食事ひとつできなくて死んでしまう子どもたちがたくさんいるんだぞ!」という超展開を披露し(個人的に、それはそれ、これはこれ、だ)、気付けば小脇に抱えられて、玄関の外に放り投げられていた。無情にも、カギが閉まる音が響く。
わたしはまた泣いた。ひたすら泣いた。「お父さん、開けてよー!」とドアを叩きまくったが、反応はなかった(近所の人たち、なんで出てきてくれなかったんや……)。
寒くて仕方なかったが、裸足のまま外を歩くのは嫌だった。家の前の階段に座って待つこと1時間ほど。子どものころの記憶なので、もっと長かったのかもしれないし、短かったのかもしれない。
中で騒々しい音がしたかと思うと、母親が血相を変えて玄関から飛び出してきた。
そして、玄関の前でうずくまるわたしを見て、驚きと安堵、衝撃を受けたかのような複雑な表情になる。「あんた、なんでこんなとこにいんの!?」「お父さんに放り出されまして……」もはや、真冬の空の下ずっと待っていると、悟りの境地に達してしまうものだ。
怒りや憎しみ、悲しさ。そんなことよりもまず、やっと暖かい家の中に入れるという安堵でいっぱいだった。
ちなみに父は寝ていたらしい。わたしがいないことに気が付いた母が父に尋ねても知らん顔。わたしが「お父さんに……」と言っても「俺が子どもにそんなことするわけないだろう!」の一点張り。
そう、酔うと記憶がすべて飛んでしまう。自分が子どもにそんなことをするわけがないと、本気で思っているのだった。(ちなみに先述した運動会や母へのひどい言動もすべてわたしたちの妄言だと思っている)
トラウマだらけの小学生時代④
そんなこんながあってしばらくすると、今度はエアガンにハマりだした父。これがまた怖かった。
家に的を作って、四六時中酔ったままパンパン音を鳴り響かせているのだ。
子どもを真夜中(しかも真冬)に放りだして忘れてしまうような父だから、いつ標的にされるかわかったもんじゃない。それは母も同じだったようで、わたしたちは自分たちの家であるにもかかわらず、なるべく父の気に触れないように過ごした。
たまにお遊び感覚で銃口を向けられたときには、背筋を冷たいものが駆け上った。
どこでも手に入るエアガン。玩具とはいえ、BB弾の威力を知っているだろうか。至近距離から撃てば、何重にも重ねた段ボールにいとも簡単に穴を開けられるあれは、もはやれっきとした凶器といっていい。
そんなものに狙われて、酔った勢いでトリガーを引かれたらどうなるか。当たりどころが悪ければ最悪、死んでしまうことだってあるかもしれない。
父はそれをわかっていなかった。
あくまでも遊び。その程度の認識だったのだ。
嫌がるわたしに、無理矢理エアガンを握らせて撃たせたこともあった。ハマるどころか、これで撃たれたらと思うだけですごく嫌な気持ちになった。
だからわたしは、「まだ小さな子がエアガンで撃たれて亡くなった」「外に少し放置したら亡くなったが、そんなつもりはなかった」というニュースを見るたびに、自分にもその可能性は十分にあったんだろうと思うのだ。
トラウマだらけの小学生時代⑤
また、こんな目にあっていたのはもちろん、わたしと母だけではない。
ある日、わたしは母と出掛けることになった。なんということもない、ただのショッピング。出掛けるといっても、たかだか2~3時間程度の話だ。
まだ幼い弟のことは父に任せ(この時点で危ない香りプンプン)、ちゃんとお願いまでしてなるべく早く帰ってこられるよう、家を出た。ある真夏の日のことだった。
2時間ほど経って、家に帰る。
リビングから、父のいびきと歯ぎしりが聞こえた。弟は勝手に外に出て行ったり突然奇声を上げたりするタイプではない。
でも、それにしては静かだなと感じた。いつもはひとりになるとカセットテープで録音した電車の音を聴いたり、ビデオを観たりしているのに、それにしては物音がしないのだ。
母も同じことを思ったのかもしれない。
涼しいリビングの中に飛び込んでみると、そこにすでに弟の姿はなく。父を無理矢理たたき起こして「○○(弟)は!?」と聞いてみる。
父は「ああー、お漏らしして臭かったから風呂場だよ」と。
は?
もう一度言う。
は?
慌ててお風呂場に駆け付けると、弟はいた。汗だくの状態で、ニコニコしながら座っている。こういう子の中には(プロではないので一概には言えないかもしれないが)、体温調整がひどく苦手な子もいる。
弟もそのうちのひとりだ。
だから真夏に窓も開いていない風呂場に閉じ込めておくというのは、まさに命にかかわる危険な行為であるのだ。
自分が真冬に外に放り出されたときより、涙が出そうになった。
それから、こんなこともあった。父が電車好きの弟のために、電車を見に連れて行ってやろうと言い出したのだ。
「いい加減学んで、任せるなよ」と言われそうなものであるが、もしこれで弟に対する考えが少しでも変わってくれるなら。今後長く続いていく付き合いの中、家族を大切にしてくれるようになるのであれば。そんな希望を抱かずにいられるだろうか。
でも、やはり駄目だった。
わたしが家のまわりで友達と遊んでいたとき、母が玄関から飛び出してきた。そして言うのだ。「○○(弟)が駅でいなくなったって! もかも探しに来て!」と。
話を聞くに、駅のポップアップストアでネクタイを見ていたところ、弟がいなくなったというのだ。
父は「一瞬目を離した」と言うが、うそなのはわかりきっていた。弟は走れないどころか、ゆっくりしか歩けない。ましてや、小さなころの話。階段を下りるのも一苦労だったはずだ。一瞬でいなくなるわけがないことは、母もわたしもわかっていた。
同時に、「階段から落ちていたら?」「踏切の中に入って、電車に轢かれるようなことがあれば?」と最悪の事態が脳裏をよぎる。それにもかかわらず、「なんか目を離した隙にいなくなっちゃってさあ。じゃあ、俺は家戻ってるから!」と父は笑顔で帰っていった。
結果を言えば、弟はいた。
踏切の前で、大人しくひとり、電車を見ていた。きっといつもわたしや母とフェンス越しに見ていたことを覚えていたのだろう。踏切の中に入ることはなく、ちゃんとそこにいてくれた。父よりも必死に弟を探してくれた友達には感謝の言葉しかない。
ところがどっこい。
うちでは亀を飼っていたのであるが(なんの話? と思わずに聞いてほしい)、父がよく外で、甲羅干しをさせていた。
そんな亀が甲羅干し中、“一瞬目を離した隙”にいなくなったというのだ。
父は必死で一匹の亀を探した。わたしと母を呼んで「見つけるまで寝かせないからな!」「お前らのせいだぞ!(何が?)」と暴言を吐き、時に物に当たりながら亀を捜索した。
物陰に挟まってジタバタしている亀が救出されたのは、その数十分後。
いや、亀は好きだ。生き物は好きだ。彼らに罪はない。でも、自分の子どもより必死に亀を探す父の姿に、失望以上のなにかが沸き上がってきたのは言うまでもないだろう。
安全な中学時代
中学生になると、勉強や部活で忙しくなったということもあり、家でのことよりむしろ学校での生活のほうにストレスを感じるようになっていた。
特に部活。
この話はテーマを設けて話したい部分でもあるので端折るが、とにかくつらかった。
学校にも家にも居場所がなく、よくまあグレなかった(むしろ真面目なタイプだった)ものだと思う。どんなに家に帰るのが嫌でも、ちゃんと部活が終われば帰っていたし、このころになると父と喧嘩をすることもなくなった。
「口答えをしない」「反応しない」「父がいる場所へはいかない」こんなことを守っていれば、基本、外に追い出されるまでの事態にはならないと学んでいたからだった。
留学への道が拓けた高校時代
海外留学といえば普通、勉強したい人や新しい経験を求めている人が挑戦することかと思う。でも、わたしの場合は少し違う。留学というのはあくまでも手段であり、留学した先の目標なんて特になかった。
と、いうのも、わたしは最初の1年間だけは日本の高校に通っていた。
それにもかかわらず、いつかの記事で触れたが、いつの間にかキャパオーバー。逃げるように留学という道を選んだ。いまとなっては、こうして良かったと本気で思えるが、当時は何度も「死にたい」と思った(暗くてすまん)。
とはいえ、もちろん留学費用は親に支払ってもらわなければならないわけで、説得するのはだいぶ大変だった。最初にも述べたが、うちは決して特別裕福というわけでもなければ特別貧乏というわけでもない、どこにでもある一般家庭である。
都内にある留学センターに母を連れて行ったり、いま自分がどんな心境かということを伝えてみたり。
父は育児や子どものこととなるととんと興味をなくす人だったので、留学の話が出たときも気にするのは経済的な部分だけだったというのはかなり大きかったかもしれない。そこはむしろ感謝。
海外旅行の経験すらない十代の娘が単身留学をするとなれば、心配のあまり引き留めてくる親はたくさんいるだろうから。
いま、小さな子どもがいる人たちは考えてもみてほしい。あと十年後に、自分の目が届かない場所に行ってしまうことを(わたしだったら嫌だ!)。あのころはLINEやSNSがいまより発達していない時代だったので、連絡手段といえば月に1、2回ほどできる国際電話だけ。
それも通信料がかなり高くついてしまうため、10分程度が限界だ。「今度これ送って!」「今度○○月に一時帰国することになったから!」という事務的な連絡しかできないのは、わたしにとってもつらいことだった。
家族とですらそうなのだから、無論、友達とは一度お別れしたら一年後までサヨナラだ。この留学期間で、連絡が取れる友達は激減した。
でも、そんな思いをしつつも、ほかの人にはできない貴重な体験をたくさんしてきたことは、いまでも誇らしく思っている。
そしておそらく、この経験がなければ、その後また外国の地を踏むことはなかっただろう。
専門学校入学早々から
ここでまた、父の話に戻る。
「またあー?」と思われてしまいそうだが、わたしの人生や人格形成において、父という存在が深く関わっていることは言うに及ばないはずだ。
わたしは海外の高校を卒業してすぐ、専門学校に入学した。帰国子女枠で大学入試を受けることもできたのだが、わたしはわたしの学びたい方面に突き進むべく、東京の専門学校を受験したのだった。
そんな、入学して間もないとき、事件は起きた。
海外から帰国して半年未満、アルバイトをしながら専門学校に通っていたときの話である。
酔った父と、喧嘩をした。
いや、喧嘩というほどのことでもない。会社で気に食わないことでもあったのか、それともただ単に虫の居所が悪かったのか。リビングでテレビを見ていた父(当然酔っている)が突然怒りだしたのだ。標的はわたしだった。
内容はよく憶えていない。もうあのころになると、父の話はすべて頭の中で抹殺していた。ちゃんと聞けば聞くほど、人格を否定された気がして傷付くからだ。
ただ、それが30分、40分と続くといい加減、イライラしてくるのが人間というもので。
小さく「……うるさい」と言ってしまったのだ。
そう、言ってしまったのだ!(なんてお馬鹿さん!)
それがきっかけだった。大きくがなりながらもその声を見事拾い上げた父は、途端にわたしに向かって手を振り上げた。それもビール瓶を持っているほうの手を、だ。
「この野郎! こいつ(ビール瓶)で頭かち割ってやってもいいんだぞ!」
たぶん、本気だっただろうと思う。なにもなければ、わたしの頭はそのままゴツンといかれていたはずだ。でも、怖くはなかった。なんだかもう、どうでも良い気分になっていた。
ジッと父の様子を観察して微動だにしないわたしと、いまにもビール瓶を振り下ろしそうな父の間に入ってきたのは、母だった。珍しい。普段は母も滅多なことがない限り、わたしと父の喧嘩には入ってこない。
それは決してわたしを見捨てているというわけでなく、余計話がややこしくなるからだ。
母が叫ぶ父の背中を押すようにして、半ば無理矢理父の部屋へと連れていく。でも、話し声は聞こえていた。
「お前の育て方が悪いからだ!」「そういう話じゃないでしょう! あの子が怪我したらどうするんですか!」「俺の知ったことじゃないね! そんなに気に食わないならいますぐ家を出ていけ!」「それはできません!」「いや、出ていってもらうね! いますぐだ! 今日中に出ていけ!」
売り言葉に買い言葉で返す母ではなかった。言い返しながらも、ちゃんと生活のことを考えていた。すごく冷静。
弟の送り迎えや緊急の用事(学校で発作があった際など)があって、働けていない母がわたしたち2人を連れて家を出ていくというのは、かなり無謀なことである。
本気で困っているならわたし(もか)が働けよという話であるが、専門学校もはじまったばかり。父のためになんで自分が犠牲にならなければならないのかと思うと、どうしてもそれができずにいた。
結局、父の機嫌は直らず、でも母の説得により期限は2日後ということになった。
その日、久し振りに弟が泣いているのを見た。静かに泣いていた。ただならぬ雰囲気を察知したのだろう。
ウィークリーマンション初体験
そんなことを言っても、たった2日で新しい家など見つかるはずはない。
母がまだ仕事ができる状況でないことも、わたしが専門学校に入りたてだということも承知のうえで、父は母からすべてのクレジット・キャッシュカードを取り上げた。つまり、無一文になったわけだ。
でも、わたしには少なからず、半年弱で貯めたアルバイト代があった。これは本来、その後の目標(再度の海外留学)のために貯めていたものであったが、背に腹は代えられない。
以後、約1カ月にわたる外での生活は、わたしのアルバイト代でまかなうこととなった。
滞在先として選んだのは、家からそう遠くはないウィークリーマンション。と、いうのも、わたしたちには考えがあった。
しばらくウィークリーマンションに滞在して、時間を置く。たぶん、そうすれば父の機嫌が直るタイミングはどこかで必ずやってくる。そこですかさず謝って、家に戻してもらう。
わたしたちのほうが頭を下げるのには抵抗しかなかったが、クレジットカードもなにもかも取られたこの状態では、そうするほかないのも事実だった。
現に、わたしたちの狙いは見事ドンピシャ。
数週間後、父は母に向かって心底不思議そうに「なんで家に戻ってこないの?」と尋ねたのだった。
ただし、怒りが煮えたぎっている間に母がこぼした「いま、もかのアルバイト代で生活しているんですよ。親として情けなくはないですか?」の訴えに、「あんな奴の金、いくらでも使っちまえばいいだろう!」と答えたことはきっと生涯忘れることはないだろう。
なにはともあれ、わたしたちは1カ月ほどウィークリーマンションに住んだあと、無事に家に戻ることができたのだった。この間、人生初の金縛りにあったり学校が遠くなったりで大変だった……。
メディア志望で専門留学、そして……
この1年後、わたしはまた留学をした。カレッジ留学というやつだ。高校時代とは少々異なり、日本人が誰もいない環境。
なんとか成績は収められたものの、本来は3~4年ほどの期間を予定していたところ、1年で帰国する流れとなった。
そこには留学ならではの込み入った事情があるので理由は差し控える(話がより長くなるので)。
また、あまり重たい話と思わず聞いていただければと思うが(いや、重たいか……)、同タイミングで友人が亡くなった。
高校留学時代から常に苦楽を共にしてきて、専門留学でもなにかにつけて味方になってくれていた友人。これまでの人生を鑑みても、幼馴染みを除けば、これ以上ないというほどの理解者になってくれた人でもあった。
そんな人が、自ら命を絶ったというのだ。
それと1カ月ほどの差で、身内の中では珍しくずっと留学を応援してくれていた祖父が突然亡くなった。
これらはすでに帰国が決まってからの話。つまり、その決定にかかわっているわけではないのだが、その後のわたしの人生を大きく左右したように思う。
帰国後はまた日本の専門学校に通う予定になっていたが、かつての友人を思い出して気持ちが沈んだときにも、父との問題で悩んでいるときにも、相談できる友人はできなかった(仲の良い友人はいるけども!)。
そして、働きウーマンに
わたしが就活をしていたのは、氷河期と呼ばれる時代だった。何百通もエントリーシートを提出し、授業を抜け出しては説明会に参加し、グループ面接から社長面接を繰り返し、そのたびにお祈りメールをもらう。
海外にいたからあまり意識したことはなかったけれど、どんなに勉強をしていても「専門学生」というだけでエントリーすらさせてもらえないことがあるというのをはじめて知った。
募集要項が「4大卒」となっていても、一応は問い合わせてみる。すると「とりあえず応募してください」という会社もあれば、「大卒以上じゃないとうちでは……」と言われることもあるのだ。
専門学生と大学生の違いって? 年齢? いや、年齢の問題であれば、わたしだって紆余曲折あったぶん、大学生と変わらない。なら、単純に最終学歴の問題?
そんな風に不貞腐れた時期を通り越して、わたしの就職活動は7月前に終わることになった。
英語関連の会社(営業職)から、内定通知が届いたのだ。「やったあああ! これで夏に面接をしなくて良くなった!」と、まさに天にも昇るような気持ちである。夏場のスーツはつらい。
うれしくて、すぐに担任に報告した。その後待ち受けている地獄になど、気付きもせずに。
あれ?これってもしや……
先に結論を言ってしまうと、内定が出たのは、近年まれに見るパワハラ、モラハラ、セクハラオンパレードのブラック企業だった。
それに気が付いたのは、入社式と宿泊研修のとき。
わたしは留学なんかをしていたこともあり、新卒ではあるが年齢的には1年遅れて社会人になった。つまり、まわりの友人たちはみんな、すでに社会人2年目に差し掛かるころだったのだ。
だから入社式&研修がとある県で行われることを伝えると、みんな口をそろえて「じゃあ○○食べに行ったらいいよ!」「研修のときなんか、毎日飲み会だね!」なんて経験談を語ってくれて、わたしはそれなりに社会人になるのも悪くないと思えたものである。
ところが、だ。
いざ宿泊研修に入ってみると、朝9時~夜9時まで、食事時以外は詰め込み方式の座学。これはまだいい。食事もホテル内に用意されたものを食べるのみで、外出は一切許可されない。
夜は部屋から出ることも禁止されていた。
許されたのは、当日課された宿題(会社に関する勉強)をやることのみである。社訓や営業トークを覚えたり、受験前を彷彿とさせる詰め込み具合だった。
こうなると、いくらなんでも「ん?」と思いだす。いや、でも本当はこっちのほうがスタンダードなのかもしれないし。新入社員に覚えることがいっぱいあるのは当然だし……と、半ば無理矢理自分を納得させる形で、2泊3日の宿泊研修を終える。
帰ったら、翌々日からはもう仕事だ。
これがまた大変だった。
新卒部隊にとって、定時の2時間前に出社するのは当たり前。先輩が出社してきたら、ひとりひとり挨拶をして回る(先輩のもとに行くときは小走り)。サービス残業は2~3時間ほどで、家に帰ってからさらに仕事。平均睡眠時間は約3時間。
そのうえ毎日のように怒鳴られていたものだから、キャパオーバーになるのは割とすぐのことだった。
地元の友達が楽しそうにLINEで話しているのを見るのが嫌で、プライベートの携帯電話は電源を切ったまま放置した。これはいまだからこそ笑える話なのだが、こんなこともあった。
わたしは田舎にある支社に配属されたので、徒歩でまわれないような場所は自転車で爆走することになる。まわりはすべて田んぼ。地図を見ても、近くにある家の名前はほぼ「高橋さん」なんてこともあった。
街灯もないから、夜になると当然辺りは真っ暗闇。
なんだか“つらい”を通り越して笑えてきてしまって、試しに写真を撮ってみたらなーんにも写らない。それを学生時代からの友達で構成されたグループLINEに送って、「見て、こんなとこまわってるんだけど、いま襲われたらわたし誰にも見つけてもらえないかも(笑)」と半ば本気で半ば冗談のメッセージを付け足した。
それがちょうど電源を切るタイミングと重なってしまったこともあって、のちに「もか失踪事件」と呼ばれる事態に発展したのである。
連絡が取れなくなったわたしを心配して、友達は家に電話をかけてくれたらしい。しかし奇しくもこの時、家電を解約したばかりのタイミング。それを知らせていなかったこともあり、わざわざ学生時代、心当たりのある友達全員に連絡を取ってくれたらしい。
少し経ってからやっと電源を付けてみると、一番上に普段はLINEでしか連絡を寄越してこないはずの友達から、一通のメールが入っていることに気が付いた。
「空メールでもいいから、返事をください。みんな心配しています」
絵文字もなにもない、純粋に心配してくれているメール。それから、おびただしい量の不在着信。
あ、あれ? わたし、なんかヤバいことになってる?
すぐに返事をして、年下の同級生に怒られたのは言うまでもない。
またわたしが火種かよ!
ここでまた父の出番。ことあるごとに人生にかかわってくる、はた迷惑な人である。最初こそ「まあ、あんな人だけど留学はさせてくれたし」「毎日会社に行ってくれる(=家にいない)だけでも感謝感謝」なんて自身を鼓舞していたけれど、いまとなってはそんな気持ちもだいぶ薄れてしまった。
先述したブラック企業は、すぐにやめた。
そもそもわたしはいずれまた海外に行く予定だったし、決してつなぎの仕事という目で見ていたわけではないものの、英語にかかわれるならその会社だけにこだわる必要性は微塵も感じていなかった。
それを感じていたのは、父だった。
父は「終身雇用世代」である。だからわたしがすぐに会社をやめたことを、「俺に相談もせず勝手に仕事を決めてきて、家を出て行ったと思ったらすぐ帰ってくる。お前の人生終わりだな!」と吐き捨てるように言った。
相談? いままでなにか、相談なんて一度でもしたことがあっただろうか? 尊敬できる父親でいてくれたことがあっただろうか?
いままで一度だってまともに話したことがないのに、就職の段階になって急に相談しろと言われても無理な話である。
いまでもそうだ。父のことで知っていることと言われれば家族構成とアルコール中毒であるということぐらい。大人になるまで、父の仕事のことすら知らなかった。つまり、幼いころから特に父という存在に興味はなかった。
家にいて、嫌なことをしてくる人。
そんな認識だったのかもしれない。
わたしが会社をやめたのはわたしの判断であって、その責任は誰にもない。就職先を決めてきたのも自分自身で、それがブラック企業だったのは多少運が悪かったかもしれないが、見る目がなかったと言われればそうなのだろう。それを誰かに押し付けるつもりは毛頭ない。
けれど父にとっては違ったらしい。
わたしの目の前で、父は母に暴言を吐きかけた。わたしが会社選びを間違えたことは母の教育のせいで、わたしの人生が台無しになったのも母が悪い。きっとこのままわたしはろくでもない人生を送るに違いない。こんな風に育てた責任は母が取るべきだ。
まるで呪いのような言葉だった。
母もさぞつらかったことだろう。なんなら「わたしのせいじゃない!」と言ってくれても良かったし、わたしが「違う!」と反論しても良かったのだろうが、もうわたしたちにはそんな気力もなかった。
父は言うだけ言うとスッキリしたのか、部屋に戻っていった。
はじめて、母が声を上げてわたしにしがみついて泣いた。「ごめんなさい」と謝りながら。
その日、話し合いの末(いや、ほぼ話し合いにはなっていなかったが)、離婚を前提とした別居をすることになった。
もう母は少しずつ仕事をはじめていたので、2人で不動産まわりをしながら家を決めた。
ちなみに酔った父はなにも覚えていないので、この日のことも一切記憶になく、わたしたちが勝手に家を出ていったと思っている。
海外で働きはじめる
さて、離婚したわけではない(この部分は家庭の事情により省略)ので母の心労は絶えないわけであるが、少なくとも家に父がいるという苦労はなくなったわけである。
「これからのわたし(もか)の人生はろくでもないだろう」という父の言葉に相反し、すぐに仕事は見つかったし、やはりややブラック体質であったものの、いろいろな経験ができてそれなりに楽しく働いていた。
でもそれも、時間が経つにつれ「ああ、やっぱり海外に住みたいな」という欲が出てくる。英語ができるできないではない。なにが良いというわけでもない。わたしの性格には海外の水が合っている。それだけだ。
決めてからは早かった。
年明けにぼんやり「海外に行きたいな」と思い、その4カ月後には飛行機に乗り込んだ。
渡航2週間前までは友達にすら海外行きを言っていなかったため、怒られた。この“誰にも相談しない癖”はそろそろ直したいところである。
海外での仕事や生活については別途個人ブログで紹介していくつもりではあるが、まあ、大変だった。就職氷河期を乗り越えたわたしでさえ、ポキリと心が折れてしまうほどに大変なことの連続だった。
観光と留学、就職はどれも違う。そんなことを思い知らされた。
それでも諦めずにいられたのはひとえに、母や友達の応援と「いつでも帰ってきていいよ」という温かい言葉があったからだ。
ライター業に挑戦で自分の過去を知る
いろんな人に取材をしていると、頭の良い人ほど逆算で人生を生きている。
まず最終目標を定めて、そこに到達するための手段やプロセスを細かく設定していくという方法だ。
わたしももちろん意識的にそうすることはあるが、やはりどうしても行き当たりばったりになってしまうことのほうが多い。そして、そんなときの出合いからさらなる行き当たりばったりに、の繰り返し。
でも、記者として働きはじめて少し経ったころ、あることに気が付いた。
わたしがメディア(マスコミ)の勉強をはじめたのは、高校留学をしたころだった。授業の一環として、メディアスタディーズ(ジャーナリズム)を専攻していたのだ。
それから、カレッジ留学のときはマスコミ専攻。これも特に意図したわけではない。そのときもっとも興味があったことを選んだだけだ。結果として、マーケティングやデザインなんかも勉強できたから非常に良い体験だったと思う。
それから、気付けば記者になっていて、ライターとして仕事をもらうようになっていた。
「ああ、なんだ。わたしがしてきたことってバラバラに見えて、実は一本の線でつながっていたのかもしれないな」
改めて考えてみれば、わたしは高校時代から、ずっと文字にかかわる勉強・仕事をしてきたのだった。興味がなければできることではない。
ようやく、自分の目的地が見えたような気がした。もっと勉強がしたい。専門的に、今度こそ。
そう思った矢先のことだった。
原因不明のめまいで倒れたのは。
いまだにわからぬめまいの原因
めまいが原因で、帰国を余儀なくされた。働けないということは、ビザが取得できないということでもあるからだ。
取材に出られないどころか、長時間のパソコン仕事も苦痛というこの状況で、ライター業を続けるのには無理があった。
なら一層のこと、帰国して治療してからやりたいことを思い切りやろう。
当時はまだそんな呑気な気分でいられた。でも、帰国から1年。めまいが慢性化してからは1年半。
できる限りの検査はしたし、精査のための入院もしたけれど、いまだ原因はわからないまま。わからないから、消去法的に「心療内科では?」と結論付けられる。
「肩こり」と言われたこともあった。
心療内科も肩こりも、まあ、思い当たる節がまったくないと言えばうそになる。記者をしていたときは寝る間も惜しんで働いていたから、いくら楽しい仕事だったとはいえストレスは抱えていただろうし、常にパソコンと向き合っているから肩こりも当然あるに決まっている。
でも、唯一の原因と思われる仕事をやめても一向にめまいは改善しないし、パソコンを使う時間を減らして、言われたとおりのストレッチをしたり薬を飲んだりしても肩こりもそのまんま。
心療内科で「でも先生、割と自由に仕事ができているいま、ストレスなんてないんですよね」と言っても「自分で気付いていないストレスもあるから」と言われるばかりで、なんの解決にもならないのだ。
それは確かにそのとおりだろうと思う。
無意識のうちに溜め込んでしまうストレスというのは誰しもあるものだ。でも、心因性の一言だけで片付かないなにかがあるような気がしてならない。
だって、たまに脚に力が入らなくなるのだ。物が二重に見えたり、光が異様に眩しく感じたり、目の奥が痛んだり、後頭部から頸椎にかけてがひどく痛んだり(座位・立位)、音が苦手だったりする。精査してくれた先生によれば、これらすべて心因性なのだそう。
本当に?
寝ていればまったく問題ないのも、心因性?
そう思わずにはいられない。
でも、やりたいことがハッキリしてしまったいま、立ち止まっている暇などない。何年かかろうが、何歳になろうが、わたしはやはりまた海外に行って、勉強したいことがある。
毎日のように感じるめまいは非常に鬱陶しいし、怖い。
じゃあ諦めるのかと言われれば、うん、もしかしたら途中でやりたいことが変わる可能性も否定はできないだろう。
でもいまのところ、自分の弱いところ、逆にできるところを見直して、可能な限りうまくこの症状と付き合っていく方法を探すほかないのだ。
最後に:自己紹介をした理由
わたしがこの自己紹介文を書こうと思ったのには、おもに2つの理由がある。まず、わたしという人間を知ってほしかったということ。
Twitterで呟いたり、アメブロで愚痴ったり、個人ブログで情報発信をしたり。
いろんなことに手を付けているが、もしかしたらそのメッセージの中のどれかは、わたしが経験してきた数々の記憶から形成されたものかもしれない。なお、Twitterでわたしが家族の話をするときは当然、別居中の父のことは含んでいない。
なので、素敵な家族(笑)っぽく書いてあるときは、母と弟、わたしのことだと思って聞いてほしい。
呪縛から解き放たれた家族はこんなにも自由になる!
それから、もう1つの理由。
先日めまいの精査で入院したわけであるが、いつもどおり異常なしの結果に。消去法でまた「心因性」との診断が下された際に、「気になるのは家庭環境だよね」と精神科医でもない医者から言われたのだ。
悔しかった。わたしは入院初日にただ家族構成を聞かれたので、「4人です」と。「全員一緒に住んでる?」と聞かれたので「父は別居です」と。「それは家庭の都合で?」と聞かれたので「そうです」と言っただけ。
それ以上、なにも話していない。
でも、言い返せなかった。
確かに父に良い思い出はまったくといっていいほどない。「まあ、ストレスはあっただろうな」とほんのり思ってしまった。
ただし、別居したのはもうずっと昔の話で、めまいが慢性化するだいぶ前から声すら聞いていないこの状態で、むしろ父と同居していたときよりずっとしあわせなこの環境で、いまさらストレスが爆発するものだろうか。
医療関係者から見ればそういうものなのかもしれないから、もう一度自身に起こった出来事を整理する意味でも、半ば父のことメインで自己紹介文を書くという結論に至ったわけだ。
いやあ、意外と思い出せるものである(ここに書いた出来事は半分以下程度だけれども)。
ここまでお付き合いくださりありがとう。共感してくれる人、わたしの弱さにイラッとした人、いろいろいるかもしれないが、備忘録も兼ねた長い独り言と思って、不快感を覚えた人はスルーしてほしい。
結論:酒は飲んでも飲まれるな!(いやほんとにマジで)
家族は大事にね!
Twitter⇒@MochaConnext
複数ブログ運営中⇒雑記/ポップカルチャー/レビュー/英語学習/アメブロ(めまい闘病日記)
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