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図書館や本屋さんで圧倒されてしまう私は…

 昨日図書館に行って色々なジャンルの本を見たのですが、借りたい本が見つかりませんでした。今借りている本が10冊家にあるというプレッシャーもあったかもしれませんが。図書館で気になった本をパラパラッと見て、こんな難しい内容の本を読める人がいるのはすごいよなあ、と思いました。

 本屋さんに行った時も似たようなことがありました。たくさんの本を見てインスピレーションを得る人の話を聞いたことがあるけど、私は正反対で、店内のたくさんの本を見て、「自分の知らないことがこんなにも大量にあって、その難しい内容を知っている人がこんなにもここにいるんだ」と思い、打ちひしがれた気分になります。選択肢が多すぎて混乱する状態とも似ているだろうか。本屋さんに来ている人=自分より色々なことを知っている人、と思ってしまうし、実際に難しそうな分厚い本をたくさん抱えて店内をうろうろしてる人いますよね。

 そして店内で打ちひしがれた私の次の行動は、平積みになった本の中から「これは今読んだ方がいいんじゃない?」と思う本を買ったりすることです。そうして買った本が『アウトプット大全』や『読みたいことを、書けばいい。』だったりします。『FACT FULNESS』や『エッセンシャル思考』は手に負えなさそうだったので、手に取りましたが引っ込めました。

 どちらの本も私がnoteで投稿を始める前に読んだのですが、『アウトプット大全』を読んだ時は、「ブログをやってみたい!」と思い、WordPressのことを調べたのですが、ドメインを作るとか、サイトの設計をするのが難しそう…と思って実現できず、『読みたいことを、書けばいい。』を読んだ時は、著者の田中さんの言い回しが面白くて途中まで笑いながら読んでいたのですが、肝の部分に差し掛かって「一次資料に当たる」という所で「ダメだ!できそうにない」と思ってしまいました。誰かの書いた出どころのわからない情報ではなく、「一次資料に当たる」ことが物を書く上で何より大事だというお話で、私は「そこまではちょっと…」と怖気づいてしまいました。と、ここまではnoteを始める前に私が『読みたいことを、書けばいい。』を読んだ時の話なのですが、このnoteを書いてみようと思いついて、もう一度『読みたいことを、書けばいい。』を読み返したんです。そうしたらその「一次資料に当たる」の項目の2つ前の項目に衝撃の言葉を見つけました。(※太字部分は原文のまま太字です。)

p.142 つまらない人間とはなにか。それは自分の内面を語る人である。少しでもおもしろく感じる人というのは、その人の外部にあることを語っているのである。
p.143 随筆とは、結局最後には心象を述べる著述形式だということは述べた。しかしそのためには、事象を提示して興味を持ってもらわなければならない。事象とは、つねに人間の外部にあるものであり、心象を語るためには事象の強度が不可欠なのだ。

 そして次の項目「物書きは「調べる」が9割9分5厘6毛」に続くのです。以前読んだ時には何も自分の文章を書いていなかったので、スーッと通り過ぎたようです。このnoteは外部にあることを語っていますよね?本を紹介している時点でセーフと思おう。

 田中さんは著書の中で、「ライターの考えたことは全体の1%以下でいい」とおっしゃっています。昨日私が紹介した松浦弥太郎さんは著書の中で「1から自分でオリジナルの表現をつくったものでない限り、それはアウトプットとは呼べません」とおっしゃっています。しっかり調べて、そのことをそのままコピペではなく、考えて整理して自分の言葉で書く、ということでしょうか。

 私が面白いと思って読んでいる文章には、外部にあることが多く含まれているんだろうか?ということを確かめたいと思っているのですが、イメージとして何かのできごとや思い出の話には外部のことが含まれますよね。自分の内面だけでは成り立たないような。

 本を読んでいて色々な考え方に触れることがありますが、皆さんがどんなことを取り入れるのかに興味があります。自分が「取り入れたくない」と感じることは取り入れないだろうし、「これやってみたい!」と興味を惹かれることを取り込んで、その人の魅力が作られていくとすると、どうしてそのことがいいと思ったのかとか、そういう話が聞いてみたいし興味があります。自分とは違う人の心の中で考えていることを知りたいという欲求があって、だから人の書いた文章が読みたいのかな、と思いました。

 珍しく長くなりました。最後までお読みくださってありがとうございました!!

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