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月モカ!!vol.283「とある土曜の夕方、上島珈琲で」(後半)

VOL.1(前半)はこちらから読めます〜

西日暮里を歩いていて諏訪神社のそばで見つけた公園/2024.5.24

  小学校の頃、集団下校というのがあって、運動場に家が近い子供たち同士集まってまとまってから帰るというのがあった。同じ区画にさとこちゃんという女の子がいた。その日さとこちゃんはずっと泣いていて、でもその理由が誰もわからず先生たちも困っていた。今でもあれがなんだったのか。
厳密に聞かれるとよくわからないのだけどその時わたしは瞬時にさとこちゃんの魂へと感化した。
(家に帰っても誰もいないから)
 これは文章だがその時さとこちゃんの感情はわたしの肉体に憑依した。
わたしは「そうなん? お家に帰っても誰もいないからいやなん?」と聞いた。さとこちゃんは大きく頷いてより一層大きくわああんん、と泣いた。

 小説を書いている時、わたしにはずっとこれが起きている。けれどこれは不思議な能力で、実生活をしている時にこれができるわけではないので、例えば好きになった男の気持ちとか、書く段になって初めてわかることがあるけれど、それでは全てがすでに遅し、ということがあって、つまりは実生活にはそんなにうまく反映しない。ただ時々、そのような純度の高い憑依が実生活でも起きる。それをスピリチュアル用語ではエンパス(共振)というらしい。つまりあの夕方、上島珈琲で、わたしはおばあちゃんに感化した。つまりエンパスしてしまったのだと思う。現在のコンプラ社会ではおばあちゃん、などと表現せず高齢の女性と描写すべきかもしれないが、そもそも憑依したわたしにとって彼女はそんな遠巻きな描写ができる相手ではなかった、故にシンプルに「おばあちゃん」と呼ばせてもらいたい。

おばあちゃんが片手で小さな手押し車を引いてるにも関わらず残った左手でトレーを持って、おぼつかない足取りで店内とテラスを仕切る自動扉を開けて外へ出た時から飲食店従事者の自分は(溢す…)と直感的に思っていた。でも見ないことにした。職業柄気づいてしまうけれど目を逸らしたわけではなく、店員でもないのに過干渉だよなと思ったから。
 でも自動ドア越しに客観的にそれを眺めていたわたしは、あのクリームソーダがトレーに溢れたあの瞬間に、幽体離脱した。
SHEがIになり、不安定さを増した緑色の海を手にもつその重力と、周りの目の無関心に晒されて途方に暮れて立ち尽くしているのは、もう、自分自身に他ならなかった。子供の頃愛読していた「ほっぺん先生」のシリーズで食物連鎖の回があり、例えば自分が小さな虫だとしたら鳥に食われた瞬間、自分は鳥になるのだが、そんな感じで、トレーの上にソーダがこぼれたその瞬間から、わたしはあのおばあちゃんそのものなのだった。同時に三人称で状況を観察しているわたしもいた。おばあちゃんが目で助けを求めている女の人はパソコン持参でテラスにいておそらく今仕事をしている。おばあちゃんの状況には気配で気づいているけど目視で気づきたくはないし、そもそも「テラス席は満席なんだから把握してからオーダーしろよ」と思っているからこのまま無視しようと思っている。そしておばあちゃんに一番近い席の人は着物の男性で、おそらく仕事をしにはきてないがその代わりこのチルな時間をお金で買いに来ているのでおばあさんのハプニングに反応して席やこの時間を譲るのは微妙に納得がいかない感じで、気まずい雰囲気ではあるが席を譲る気配はない。
「ダスターはありますか!?」
思わず知らない人のような声が出たのはその時だった。おそらく魂が自身の肉体から離れていたから、隣の人が言ったような気がしたんだろう。

 やさしい店員さんが、煮詰まっている店員さんにおばあさんの席の確保を促し新たなトレーを準備している頃、そして煮詰まっている店員さんが煮詰まりすぎてどこかへ消えた間、わたしは当初おばあちゃんが座ろうとしていたハイテーブルがまだ空いているのを目視で確認していた。
小さなおばあさんなのでハイの椅子には座れないのかもしれない。
そう思って、おばあちゃんに(ここに席がありますけど・・・)という目線をしたらおばあちゃんが何度もまた「あいがとうございます」と言った。「すぐに店員さんが持ってきてくれるから」とおばあちゃんを席にエスコートして、ハイの椅子に座れるか見てみたら足は悪くないようでちゃんと座れた。あ、よかった。この席よりテラスがいいと思っただけで物理的に座れないわけじゃないんだな。と思った。それで安心して「今、オーダーがきますからね」と伝えて頷くおばあちゃんを見たときにやっと気づいた。この人には音がない。それを本能的に察した自分が身振り手振りで物事を伝えていたこと。つまり、多分だけどおばあちゃんは耳が聞こえなくて、だからただひたすら「ういまてん、あいがとうございます」と言っていたこと。

 そのときに思った。飲食業や公共のものなんでも。「お伝えしましたよね」「書いてありますよ隅に小さく」みたいな感じで、トラブルを防ぐ前提ではあるのだけど「お伝えしました詐欺」みたいになっていることがどれだけ多いんだろうか。「お席はおとりになりましたか? お席お取りになってからオーダお願いします」と口頭でお伝えしているけど、それより前に「耳は聞こえますか?」と誰も訊いていない。そのような一方的な取引の中で彼女は「前提を無視し満席のテラスに出てきて座ろうとする」我が道をゆくシニアに見えてしまったんだと。

昨年、亡くなった友人の長寿を願った延命地蔵尊に今年は彼の墓参りに行った報告をする。

 とにかく過干渉になるのを避けたいので、オーダーの到着を待たず、やさしい店員さんに「あちらに座っておられますんで」とだけ告げて店を出た。店を出て最初の路地を左に曲がった瞬間大粒の涙が堰を切ったように溢れて自分でも何が何だかよくわからなくってパニックになった。どうして? もう大人になって随分たつ。東京に来てからだって相当な年月になる。このような人の無関心や摩擦やすれ違いなんて山ほど見てきたはずじゃない。どうして泣くの? 
店でだってもっと複雑で筆舌にしがたいことが起きているじゃない。

 言い聞かせたけど理屈じゃなかった。
あのおばあさんにエンパス(憑依した)あの一瞬のどうしようもなく「途方にくれた気持ち」が、その「途方に暮れた状況を説明できない身体的状況も相まって」言葉にならずに涙になるのだった。このような誤解を、このような行き違いを、彼女はこれまでどれだけ味わってきたのだろう。客観的に感化しながら主観的に感化する。
(知らなかったんです聞こえなかったから)
(わからなかったんですテラスが満席だったなんて)
(ちょっと覗いてみただけなんです、まさか溢すと思わなくて)

彼女の心の声がなぜかわたしの心の声になって涙が止まらない。だけど彼女はやさしい人にその後出会ったんだ、わたしという優しい人に。わたしがダスターを持って駆けつけるまで、わたしに永遠に思えたその間も現実には20秒もない。彼女は孤独じゃなかったはず。だけども優しいわたしが現れたそのときにエンパスしようと思っても、わたしはなぜかそこだけはわたしにしかなれず、緑のクリームソーダの海と、途方に暮れているおばあちゃんを見ている。強烈な感情に感化してしまうから、途方にくれたあの瞬間のおばあちゃんの感情と、それを見つけた瞬間の自分の感情を反復横跳びして、心は冷や水をぶっかけられたように驚いて苦しく、涙が止まらない。久しぶりに買った黒糖キャラメルの味も、もうよくわからなかった。何が悲しいのすらも。やさしい店員さんがいたし、何よりわたし、やさしい人だった。あの場所にやさしい人が二人もいたからあのおばあさん気の毒な人じゃないよ。それに。

上島珈琲のキャラメルミルク珈琲


 想像した。もしあの場に栞がいたら。妹たちがいたら。三重に住む幼馴染がいたら。わたしの恋人がいたら。マヤがいたら。みんなきっと何かを話す前にきっと彼女に駆け寄っていたはず。何もしなかったくせに後から「敢えてあの時は」などと言い訳をするような身内は一人もいない。何度も自分に言い聞かせた。大丈夫。よかった。わたしの、周りにいる人はみんなやさしい人で。わたしの周りにいる人間の誰と出会っても、あのおばあちゃんは、あのまま放置されない。きっと当初の希望通り、美しい森の角にある上島珈琲店のテラスで、お気に入りのケーキを食べられる。目が覚めるように鮮やかなビリジアングリーンのクリームソーダーと一緒に。

<月モカvol.283「とある土曜の夕方、上島珈琲で」(後篇)>
※月モカは「月曜モカ子の私的モチーフ」の略です。


朗読Verもまた近々upします〜〜

イーディ新名刺到着!(2024.5.18)

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