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月曜モカ子の私的モチーフvol.255「丁寧な断捨離」

丁寧な断捨離。デトックス及び浄化、というやつである。
どこいらへんが丁寧かというと「仕分け」の部分。
そして「物理的ではない」部分。
先日の月食のおかげで「デトックス及び浄化、そして生まれ変わる!」とか大きく叫んでも、あまりスピ味を感じず地続きの作業のように思える。

欠け始めた先日火曜の月🌒

火曜。月食。
実のところ月食の日は前日の夜から眠くて眠くて、どうしようもなかった。


(ゆえに前日月曜、1週間分の税務作業を終えたところから眠くて仕方なくなり月モカ更新を諦める。起きて火モカでも何か書こうと思っていたが火曜はもっと眠かった)。

随分と寝たはずなのに、店が終わって帰宅後またコロッと寝てしまった。
(よく考えるとノーゲスになるのもいつもより早かったから、世の中の人がみんな眠かったのかもしれない)

水曜。ともかくダルい体を引きずってジムのプールで少し泳ぐ。

木曜、眠い。金曜、眠い。土曜、眠い。
金曜に至っては出勤した時お客さんがちょうど途切れた時だったんだけど、
栞と交代に入ったはずなのに猛烈な睡魔に襲われて30分ほど二階で横になっていた。これは異常。もうわたしの采配では何もできぬ。
宇宙のみ、我らが行き先を知るのである。

彼岸花のような感じに束ねて売ってあった唐辛子。思わず買ってしまった。

ところで断捨離。丁寧な断捨離。
これについて話すとすると、つまり断捨離というのは「要らなくなったもの」「もう必要ではない誰かとの縁」とか、わかりやすく言うと、服とか雑貨とか家具とかを捨てて電話帳や名刺を整理したり、するよね。

ただ今回わたしが着目したのは
A.本当は好きでないけど続けていること
B.無意識のうちにそれが当たり前だと思っているけど本当はもうあまり今の自分に合わないこと
C.それ果たして今も自分が望んでいる目標なのか」
など、習慣や概念や「感覚」に近いもの見直しと断捨離、であった。

例えばA.とかは、自分的タイミングでない時のLineのやりとり、とか。
相手の気持ちを慮りすぎて「これは早く返信欲しいだろうな」とか「この人は性格的に今こういう言葉を欲しくて連絡してきてるな」とかいうものを無視しきれない。だけど自分を本当は守らないといけないのだから、本当はいっそのこと既読しないで放置したり、相手を不安にさせないための「必要不可欠なささやかな嘘」などをつけばいいのに(それ嘘じゃん)とか思う自分によってそれすらもできないでいたりすること。

例えば月モカなんかは書ける気分の時に書いて保存しておけば、遅れることもないのだけど(それだと意味がない)という自分の所信があったりする。
(ええとこの所信に関しては断捨離せず、毎日なんとか月曜に更新することを死守するルールを断捨離しました笑)

あとnoteに何か書く時に「何かしらの公募ハッシュタグに参戦すること」とか「幅広いところから人が読みにきてくれそうなハッシュタグをつける」ことも、正直全然やりたくない。

→なので今後は自身がフォルダ分けに使っているタグと大まかなジャンルタグしかつけないことにする。もちろんタグやたらつけたい時はつける。

10月から時折カウンターりさこ。妻りさこ。
りさこも月食の週はとても眠かったらしい。

「B」無意識のうちにそれが当たり前だと思っているけど本当はもうあまり今の自分に合わないこと
に関してだと、お酒がそうだったりする。
「お酒を飲むことは仕事でもあるから」という感覚が長くあったけど、うん、果たしてそうかな? とか、これがよくあることなんだけど「お酒が好きな人間」と思われているゆえに「がっつり飲む前提じゃないと人と約束ができないけど、がっつり飲まないといけない時点でその約束が憂鬱になっている」2022の自分。これは先日、後輩のさおりとの飲み会を皮切りに、言える人には「暴飲暴食できる体力がもう今はない」ことを伝えて実行気味。

つまり2021年のレディオとかだと、終わってからの「飲み」が楽しみだったわたしはもういないのである。終わってから「飲み」があると思うと気分というより体が憂鬱なわたしが今のわたしなのである。魂は酒が好きなのである。ただ肉体はそれを認めない。昔は「酒の一滴は血の一滴」であり商売にしているならお金そのものでもある、という考えで、半端に残った泡とかは飲み干して帰っていたがそれらも断捨離、例え流しに捨てたとしてもこれはお金では、ない。笑。

悠光ちゃんの新刊届いた〜!装幀のピンク素敵!!

この詩集もまだ眠すぎて読めていないのだが、この詩集にまつわるささやかな予感についてはこの記事に書いたよ♪

で、断捨離of 「C」それは果たして今も自分が望んでいる目標なのか。
なのだけど、これはなかなか見極めの難しい課題であった。
つまり自分は古い地図を持っていてその古い地図に「行き先」を記してここまで来たので、それは今の、いわゆるZ世代といわれる人たちの「行き先」とは違う。夢を叶えるならまず東京にゆけ!みたいなところが序文の古い地図なので、やっぱりバカ売れして有名になるのが幸せであり、この地図における幸せとは「成功」である。

でもそれは果たして2022年43歳の自身が望む幸福なのだろうか。
という、古い地図に対する見極めと断捨離。

今日、自宅の手紙などを整理整頓及び断捨離していたら、うちの栞が12年前にわたしの著書「誰June」を読んで出版社宛にくれたファンレターが出てきてそれを読んでいたんだけど、凄いのは、
「わたしの夢はギャラリーのあるカフェ、バーを持つことです」
って書いてあったこと。
もう間接的に栞は夢叶えてるやん!てなって思わず栞にlineしたんだけど、
栞は夢叶えスペックが高いんだなと思った。
(↓最近では花屋さんになりたかった、という夢を、形を替えて実現中の池田栞)


そう思うとわたしの夢って、

○女優になる→玉砕
○作家になったからには売れてやる→玉砕
○この人が運命と思った恋愛→全滅

って感じで、夢叶え能力はあまりないんだけど、うまく言えないけどね、今の自分の人生は例えば「女優になったその先の」「作家になって売れたその先の」「運命の恋愛が成就したその先の」幸福というものには意外と直結してるなあとか思ったんだよね。
例えば「作家になって売れた」その後には「誰かのバイブル(聖書)になるような本を遺したい」とか「自身のお店を趣味で持つ」があるとしたら、
それを売れなくても叶えてるわけで、
(まあ、お店は命がけだから趣味ではないが笑)

あと新刊「宵巴里」を広めなくちゃいけないことはよくわかっているんだけど、自分は割と心が細いところがあるから「傷つくリスクがある場所」に営業に行くのはしんどい。例えば往来堂さんとか。
根津の近所にふらっと行ける本屋さんなんてあまりないのに、そこに突撃して「置いてもらえない」ことになったら、往来堂の看板見ただけで辛くなってしまう。でも「営業しなきゃ」でしょ、宵巴里売るんだから。

なんだけど、ここも見直したいと思った。
「本当に営業しなきゃ宵巴里は売れないのかな」
「他にもっと自分に合った売り方があるのかも」

先日うちの常連で友人のエコ氏が「営業」について話していて、
わたしが「営業ってわたし本当に苦手なんだよ。だから営業の人ってほんと尊敬する」って言ったら、
「いや店を3年続けられているモカコさんが営業できないとは思わない」「そして営業って能動的な動きだけではない」
って言った。

なるほど、と思った。

ISBNの登録に看板の提示が必要なので掲げる。
なんだか出版社らしくなってきた。笑。

例えば酒場におけるわたしの哲学って割とはっきりしていて、
「来てくれた人を全力でもてなす」
以上、なんだよね。
食べログの営業電話にも「広げたくないんです、知られなくていいんです」って断ってて、今日ノーゲスなりそうかって日も、誰かに「お願い来て」みたいなのは(今日までの3年数ヶ月関しては)しないけど、なんとか誰か来てくれている。

つまり「営業」や「売り込み」って突撃していく作業だけじゃないんだよなあ。

そこからイーディを最強の「沼」にしていくことはできないのかについても考え始めた。笑。

もしかしてわたしの本を広めてくれる人って、中島桃果子という人間を拡散してくれる人って、店の外に出かけて行って探す必要はなくって、
わたしさえ、ソリッドに努力を重ね、オーラを磨いて日々たゆまずそこに立っていれば「へえこの人、本も書いてるんだ」「だったら新作読みたい」ってなってそしたら「もっと広めたい」ってなるんじゃないのかな。
(作品は確かな前提なので)

古い昭和の地図には「仕事とは辛いもの」「血の滲むような努力」「当たって砕けろ」と書かれているけど、それがわたしに合わない場合もあるんじゃない?

例えばいま、飲食店芳しくなくてイーディも赤字すごいけど、だからって年内にイベント増やしてみんなにLINEして集客しようってのもなんかピンと来ないし通常の営業Lineはしない主義だし——前述に友人とのやりとりで嘘つけないと申した通り、本当にお客さんにとって「来なきゃ損!」って思うようなことがないとLineもできない女主人です——こんな感じで春先までマイナスを積んでいくならいっそ栞とフィンランド行っちゃおうとか考えているのが自分自身で、それを「気が乗らない方向へ曲げていく」ことが、華やかな集客につながるとも思えない。

2010年/麻布ハイプラザにて

結局は自分の直感的正直を貫くのか、それが「ひとりよがりにならないために」ある程度「こうすべき」ガイドラインを尊重するのか、
そこは当然揺れる、だからこそ「丁寧な断捨離」が必要なんであって。
古い昭和の地図を頼りに来たわたしがZ世代になりきるのは違う。
でもそもそも「古い昭和の地図の概念」との不具合の中で叫び続けてきた記録がわたしの著作そのものであり中島桃果子という小説家の軌跡なわけで、わたしはやはりロッカーであり、
ロックスタアの大いなる定義は「不理解とともにある」ことであるから、
わたしは根津の路地だけを照らすニッチなロッカーであってもいいのかもしれない。

まあそんなことを11月に入ってから時間をかけて考えていて、
月食を機に「断捨離と浄化」を加速することにした。丁寧にね。
丁寧に加速する。ということは3次元の我々でいうと時間がかかるということである。ゆえに毎日それをやってる。

例えば「べき案件」で言うと今日は数字を締めないといけない。
→けれどもわたしはカレーを作りたい。
ならばカレーを作ろう。という感じ。

そんな感じで作った牛肉と牛蒡のカレーは上手に作れたよ!

○今日はジムで泳ぐべき
→だけどわたしは衣替えがしたい→衣替えをする

○今日は月曜だから月モカを更新すべき
→だけどわたしは時間がふんだんにある中でイーディのmenuのデザインをしたい。→じゃあそうする。

こういう感じ。当然必要最低限の人との連絡はする。
人に迷惑をかけない範疇の話ね。

○月モカは読みやすさを考えるとあまり長くしない方が良い
→だけど自分はこの「丁寧な断捨離」についてダラダラ書きたい。
→じゃあダラダラ書く。

まさにそんな感じ。

目下Canvaで制作中のメニュー

今思っているのは「やりたいこと」って萌えれるから、わたしはもう6時間くらい「イーディmenuデザイン→月モカ更新」をぶっ続けでやってるけど、
これが「気が乗らないけどやらねばならぬ、と思い込んでること」である場合、億劫な自分を奮い立たせて行う、というその行為に非常にエネルギーを消耗するわけだから、もしかしたらやっぱり「やりたいこと」をどんどん進めていった方がローカロリーで行き先に着くのかも。

それがもしかしたら新しい時代の所要時間計算なのかもしれないよね。

iPhoneでも割と綺麗に撮れた。
400年以上前の彼らはこの現象を何だと思っていたんだろう。
不吉、と思ったり、世界が終わる、と思ったり、
その思い込みがもたらす行動が、当時の世界を変えていたなら、
それこそが真理なのかもしれないな。
モンサンミッシェル(2010)からモンサンミッシェル(2023)へ

                    月モカvol.255「丁寧な断捨離」


edit by…石川シン[編集センス素晴らしいです、詳しくは概要欄を!]

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☆モチーフとは動機、理由、主題という意味のフランス語の単語です。
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長く絶版になっていたわたしのデビュー作「蝶番」と2012年の渾身作「誰かJuneを知らないか」がこの度、幻冬舎から電子出版されました!わたしの文章面白いなと思ってくれた方はぜひそちらを読んでいただけたら嬉しいの極みでございます!