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本で知る、ネットで知る。

「六日の菖蒲(むいかのあやめ)」という言葉がある。

辞書によると「時機に遅れて役に立たないことのたとえ」らしいのだが、文字列を眺めながら、衝撃的な読書体験をしたことを思い出した。

とあるエッセイに、慣用句についてあれこれ考えた話題が載っていた。
よくある話だが、他の慣用句と混じって覚えてしまい、言葉の意味がわからなくなった、という話だった。

その項は「ここで紹介した言葉は間違っているから正しい文言で検索してください」という言葉で締めくくられていたのだが、昔から本に答えを教えてもらってきた習慣が染み付いていたせいか、かなり驚いた。「本が答えを教えてくれない!」

最初はひどく落胆した。本というものを理想化しすぎていたのだろうか。これまでの自分の読書方法は間違っていたのだろうか。

例えば、「この答えは右だよ」という明確な答えは出ていなくとも、「答えは右」というゴールに辿り着くまでのプロセスがあり、読者は「右だ」というほぼ確証に近い仮定を叩き出す。そしてラストには「答えは右である」ということが明確に示されていた。

しかしこのエッセイは違った。プロセスの途中で読者に答えを検索させるという新しい結末で話を終えていた。それが最初は悲しかったのだが、しばらくすると別の考え方が浮かんできた。

決して悪書なわけではない。実際に、自分の中では良いライフハックとなる話題もたくさんあった。

人間の記憶に関するメカニズムは、PCでデータをファイリングするように出来ていない。当たり前だが、他の記憶と混じり合って曖昧になっていくのが常だ。だから、ひとつの慣用句が他の慣用句と混じり合うなんてザラにある。きっとこのエッセイもそのことを軸に書かれていたんだろうこともわかった。

何かの答えを導き出すのも、本から本ではなく、本からネットに変わっただけの話だ。自分の知らないどこかで、「方法」は進んでいる。自分の歩みだけがゆっくりゆっくり止まっている。

本で知ることもネットで知ることも、どちらがいいとか悪いとかも無くなりつつある。

腹に入ればみな同じとでも言うように、単一の知識が頭に入れば入手経路などこだわらなくてもいい時が到来している。

ただ、「味わうこと」だけが薄らいでいくのが、少し寂しくもある。

辞書を開けば目的の言葉だけではなく、他の言葉の知識も目について「ついで」で覚えられるようなお得感も、じわじわと知識が入り込んでくるあの快感も、薄れていってしまうことの寂しさを、どうにもかき消せないまま「六日の菖蒲」をそっと閉じた。

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