買い物は投票行動であるという意識を持つための前準備
食生活改善だとか、運動だとか、或いは朝型のライフスタイルだとか、まぁ何かと今の時代の生き方としての「べき」論には、枚挙に暇がないわけですが、その中で個人的に最も変えられないのが浪費というか、お金の無駄遣いです。
お金を使う時は投資、消費、浪費の3つに区別して考えろ、なんてことは複数のコラムで見かけますが、「たまには浪費してもいいじゃないの?」とついつい贅沢してしまうのが、人間の性というもの。
そんな中、先日からなかなか読み終わらない「暇と退屈の倫理学」の中にある、浪費と消費の区別についての目から鱗の記述がある。
「浪費は満足をもたらす。物を受け取ること、吸収することには限界があるからである。」一方で「消費には限界がない。消費はけっして満足をもたらさない。人は消費する時、物を受け取ったり、ものを吸収したりするのではない。人は物に付与された観念や意味を消費するのである」。
「暇と退屈の倫理学」P.150~154
先の、投資・消費・浪費の区分より概念的で分かりづらいが、個人的にはこの消費と浪費の区別の方が納得感が強い。
これは余談だけど、「投資・消費・浪費」の区分はいかにも資本主義的というか、「自己成長」とか「効率化」とか、そういうムダを排除して、競争社会を勝ち抜くためのイデオロギーに塗れた考え方。だから、僕も実践できなかったのだ。
言ってて、ちょっと虚しさもあるけれど、「投資」なんてほとんどしないから自己肯定感下がる一方だし、たまには贅沢してカフェでケーキセット頼みたいし、、、ま、「たまには」じゃないところが問題なんだけど。
そもそも、競争社会から下りてフラフラ生きているのに、何故それに感化されたのか、って話でして、改めて自分の虚栄心を自覚するわけです。
先の引用の続きに、消費の具体例がある。
たとえばグルメブームなるものがあった。雑誌やテレビで、このお店がおいしい、有名人が利用しているなどと宣伝される。人びとはその店に殺到する。なぜ殺到するのかというと、誰かに「あの店に行ったよ」と言うためである。当然、宣伝はそれでは終わらない。次はまた別の店が紹介される。またの店にも行かなければならない。「あの店に行ったよ」と口にしてしまった者は、「えぇぇ?この店行ったことないの?知らないの?」と言われるのを嫌がるだろう。だから、紹介される店を延々と追い続けなければならない。これが消費である。
その点、個人的に消費はしてないからいいじゃないかと思うが、とはいえ浪費も止まらないんだけど。って言いたくなって、考える。
何故止まらないのか?と考えて、ひとつ当然の帰結に行き着く。あぁ、物への興味が足りないのか、と。きっと贅沢の対象となる物への観察が足りないんだろうな、と。
今からお金を使うこれは何だ?ということをもっと深く考える必要あるんだろうなと思う。
どこの誰がどのような労働環境でどういう思いで、これを作っているのか?
今月の上旬に、「9割の社会問題はビジネスで解決できる」を読んでて、改めて田口一成さんはじめボーダレス・ジャパンすごいな、と感銘を受けた。
終章で、「エシカル消費」という言葉について触れられているけど、みんなこうして本になるくらい、作ってる人が分かりやすいと良いんだけどなぁ。わかんないと、「エシカル消費」を消費するだけになっちゃう。
一般的には、物に執着がないと、特にお金を使うことがないということになりそうなもの。
自分の場合、その逆で、物に執着がないがゆえに、「贅沢した」(或いは「エシカル消費した」)という意味だけを受け取ることになる。
特に、宣伝や流行を追いかけているわけでなくとも、十分に消費していた、と。これは、一番不幸なんじゃないかと気づく。
まぁ、変に偽善ぶっているように聞こえるかもしれないけど、自分のためにもお金を使う物の向こう側に何があるかを考える習慣をつけたいものです。
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