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自分と対話してみる話②

レイヤーなのかパラレルなのか

ときどき、自分の中には幾つかの人格が存在しているような気がする。自分という器を考えた時、中に小さな器があるように分離された人格があるのかそれともグラデーションカクテルのように微妙に混ざりながらも一つの器の中で分かれているのか、まったくわからない。

ここで自分が分からないのは、自分が持つ幾つかの人格のバックグラウンドにある価値観はいったいどこから来たのかという事だ。自分が自分の心を守るために僕と俺と私を切り分けることをしたのか、はたまた誰かが誰かの意思で注いだ願いや祈り、言い方によっては呪いというものが自分が人格の一つとして認識するに至ったのか、わからない。そしてわからないという事実が得も言われぬ恐怖を感じる。すごく怖い。

便宜上幾つかの一人称を使い分けて書いているが、普段の思考の中で一人称が固定されていることはないと思う。だけど日々の行動の中で、まったく相反する価値観に基づく行動が存在しているのでその時々によって支配的な人格が異なるような感覚がある。そこでここから先、それぞれの人格に支配権を与えて文章を書いてみることを試みたい。

僕の話

僕が大事なのは僕以外のすべて。
昔から僕の事よりも僕の大切な人たちが願う事を叶えてあげられるように僕が力を振るえればと思う。彼ら彼女らの未来に幸が多く訪れるよう、世界を守り彼ら彼女らの影として生きることを僕に求める。
彼ら彼女らが平和に、幸福に生きる事こそが僕にとっての幸せであり、すべてを見届けたい。僕は男の子だから、お兄ちゃんだから。自分にとって最も大切な人を守るためになんだってするというあの日の決意を思い出せ。
自分のキャパなんて関係ない。やれないできないなんてどうでもいい。どんな手を使ってでも、どんな苦しみを感じてもやるんだ。責任から逃げるべきではない。たとえそれが自己犠牲と呼ばれるものであったとしても、信じて突き進むのが僕の士道だと思う。
孤独であったとしても、傲慢になることなく、他者への思いやりと高潔さを持ち、独りよがりであってはならない。

俺の話

俺は俺がどうしたいかが一番大事なはずだ。
他人が大事なのはわかるが、音楽に打ち込んだりバイクに乗ったり酒を飲むことが好きなのはまぎれもなく俺自身の嗜好で、続けているのも俺の意思だろう?自分の好きになった相手を本気で愛したり、頭にくるようなことがあればうるさい黙れと言って放り投げてしまえばいい。
それ自体は決して悪い事なんかではないし、本来人間は幸せになる為に生まれてきた筈でそこから俺が解脱できたなんて考えは傲慢そのものではないのか?
結局のところ徳の高い僕という存在に憧れるだけあこがれて、実態としては煩悩の塊ではないのか?訳のわからん義務感にとらわれて稀有な機会をいったい何度逸してきたのか、なんだかんだと理屈をこねくり回す癖に大切なものひとつ守れていないじゃないか。
だからもう理想を語るのをやめて自分の心に素直に生きることを選んだらどうだ。そんなに悪いものじゃないはずだぞ。

で、自分はどうしたいの?

とまぁ自分の中のふたつの人格に書き物をしてもらったわけだけど、びっくりするほど内容が薄い。実際ベストよりもベターな選択をする方が良いに決まっている。だがそれができないのはなぜか。それは自分で自分にかけてしまった呪いがあるからだと思う。
なるべき自分となりたい自分、このふたりが分かりあうことはきっとないと思う。そしてこの2人の存在が自分を押し潰しつつあるという事を今の自分は知っている。
だからなんとかしたいしなんとかしないと自分が壊れてしまうことも分かるのに、どうしたらそれができるのかがわからない。だから助けてほしいのに助かりたいのに助けを求める事を拒絶してしまう。これがベターな選択肢なのかも分からないから。

あと3年ちょっとでで20代が終わる。それまでに自分の中にあるこの軋轢を、歪みを、不協和を解消したい。その結果幸せになれるのかどうかは分からないが、きっと良くなると信じたい。そして自分が言いたいことはたったひとつだけなのだ。ただ愛しているのだと。それだけのはずなのに。

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